なぜD社を辞めたか⑧

カテゴリー │コメントをいただいて

Kさんは、これから雲水修行にはいる私に、
「向くん君は幸せだ。立派な師匠がおられ修行仲間のいる禅寺で、師匠や先輩の言われる通り素直に修行しさえすれば、人間としての修養ができるのだから。」と言って前途を祝してくださいました。

そして、さらに次のように言われたことが鮮明に心に残っています。
「娑婆世界では、いろんな人がいて、競争があり、利益をあげたり成果をあげることが要求され、禅寺のように真っ直ぐに前だけを見て進めばよいというように単純ではない。
しかし、私は皆と酒席でバカ話しをしているような時でも、人間としての修養を忘れたことはありません。」


「禅寺や道場だけが人間修養の場ではない。いつでもどこでも人間修養の場・道場なのだ」

このKさんの餞別の言葉を、この頃益々実感をもって思い起こしています。

「仏教は無我にて候」と言うように、
専門道場の修行は、何事も身心を統一し成りきって行う、禅定三昧の無我・無心の境地を深めようとするものです。

しかし、坐禅して無我・無心でいるより、現実社会のただ中で無我・無心であることの方がずっと難しいと実感しています。

無我なのですから、人から無視されようが貶(けな)されようが、また逆に賞められようが平気の平常心でいられるはずです。

しかし、そこまで無我に徹することは難しい…。

いまここの現実社会のただ中で無我・無心であることが、
私の一生の課題だと思っています。


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この記事へのコメント
久々に会社で怒られてまいりました。
その瞬間瞬間の心の動きにも、じっくりと
耳をすまさねばならないと感じました…。

「禅寺や道場だけが人間修養の場ではない。
いつでもどこでも人間修養の場・道場なのだ」

すばらしい言葉、響きます・・・。
Posted by IV at 2012年05月18日 00:55
素敵な言葉ですね。
いつもどんな状況でも生きている今が修行の場ですね。一つ一つ誠意を持って純粋に向き合うこと、どんな場面も愛を通して感じ取ることを忘れずにいれたら生きていることが楽しくなりますね。なんだか、心が凛として気持ちの良い内容でした。心に響くお話ありがとうございました。
Posted by るみりん at 2012年05月18日 02:02
何時も拝読させて頂いております。向さんとはほぼ同世代ですのでとても説得力があります。32年前に日本で5年勤めていた会社を退職して身重の妻とアメリカに渡って来ました。その後自分で商売を起こして27年。
前を向いて頑張るんだ! 娘3人を育てて行くんだと走って来たのですが、昨年還暦を超えたあたりから高血圧など体調が思わしくなく、チョットしたことでも精神的にも直ぐに動揺するようになってしまいました。加齢とともに安定感や重厚さが備わっていくのかと思っていたのですが、自分自身はそうでは無く逆にこらえ性が無くなって来たようです。
これを老化と云うのでしょうか。。。。。。?
最近この年になって<青い鳥>の童話の意味がやっと少しですが理解できるようになりました。

外地にて向さんの更新を楽しみにしております。
Posted by LAY at 2012年05月18日 03:38
私達はつくづく「あなたに褒められたくて」生きてしまいますねっ♪こっさんのブログはそれを思い出させてくれる「読む坐禅」です♪感謝♪
Posted by yu-ko k at 2012年05月18日 10:17
自分の母親と話をしていると、冷静になれずに

カッとなったり、話を受け入れられなくなったりと

本当に大変ですが

最近はそんな自分を楽しんでます

(●^v^●)
Posted by 直弘 at 2012年05月18日 13:16
なるほど、素晴しいお言葉です。
心にずっしり来ました。
私も人生のどん底を覗いたとき、「死んだらラクになるだろうな」とか「いっそ、尼になろうか」とも真剣に考えました。
私を娑婆に居残らせたのは、二人の子供の存在です。

子供達は私(母親)がいなくても、育っていくでしょう。
素晴しい祖父母がいて、何不自由なく育っていくでしょう。
でも、母親が途中で「人生」を放棄したら、子供達を放棄したら、あの子達にどんな影響を与えるでしょうか。
もちろん、そうなったとしても、それは「決まっていた」ことかもしれません。
そこに学びの場があったのかもしれません。

しかし私はそれを選択しませんでした。
そう決まっていたのでしょう。
(放棄しなかった)理由は様々ですが、異国で一人で子供達を育てながら私はもっと学んでいるのだと思います。

Kさんの仰った、「いつでもどこでも、人間修養の場・道場なのだ」というお言葉、噛み締めています!

いつもありがとうございます。

合掌
Posted by 雅蔵 at 2012年05月18日 16:53
こうさんの記事ももちろんいつも、心に響きますが、皆さんのコメントもまた、心が安らかになります

「怒る」ことがなくなった自分に驚いています(笑)
Posted by しの at 2012年05月18日 22:17
こんにちは!

>しかし、そこまで無我に徹することは難しい…。

この境地で生きたのが仏陀であり、キリストなんでしょうね!

瞑想や座禅で空でいる時間を多く作れるようになれると、生活していても空に近い状態になれるということなんでしょうね・・・。?!


こちらにも同じ様なことが書かれていました。
http://www1.ttcn.ne.jp/turu/5mujyoukennoai.htm
>ピーク(山や谷)ではなく、ニュートラルなところが悟りの頂きです。これに気付いた人は、もはや心が上がったり下がったりせず、いつも同じ心の位置でいられるようになります。そこが涅槃の位置です。
Posted by 田島 at 2012年05月19日 20:03
Kさんの餞別のお言葉、今の私の胸に響きました。

利益とか競争とか成果とかを求められる娑婆世界が苦手で
こんな世界の方がおかしい、面白くない・・・と自分の殻の中に
逃げていたことに気がつきました。

でも、Kさんのようにどこに居ても人間修養はでき
言ってみれば自分の最も大切な核となる部分はどんな場所でも
純粋さを保ちつづけることができるのだなと感じとりました。

孝ちゃん、ありがとうございます。
Posted by haruu at 2012年05月19日 22:26
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