2013年05月30日22:21
次のような質問をいただいていますので、お答えします。
質問させて下さい。 私は70歳ですが、若い頃から体調が何かとすぐれません。 病気を治すには絶対に治すのだという気迫が必要だとよく言われています。 私は昔から仏教の教えに親しみ、因果応報とか因果律を教え込まれてきました。 ですから、悪いことをすればその報いがいつか現れ、その果を果たさねばならないと思っていました。 ですから、私の体調の悪いのも、過去生も含めて、悪い因を重ねたために起きているものだろうからすべて自分のせいで仕方ないと思っております。 しかし、最近よく触れるスピリチュアルの世界では、過去も未来も幻でいつまでも捉われている必要はない。「いまここ」に生きることが出来れば一瞬に幸せになれると教えています。 一方、仏教では因縁というものを消化してこそ、真の心の平安を得られると教えています。 スピリチュアルでは因縁すら幻だと言っているような印象を受けます。 私は、この因縁に関して、仏教とスピリチュアルの教えの狭間に陥っているようで悩んでいます。 仏教ではいくら懺悔しても法則としての因果応報は避けることは出来ないと教えていますが、スピリチュアルでは善も悪もなく、罪悪感に捉われることはないとのことです。 きっと、どこかに解釈の違いが潜んでいるとは思いますが、私にはよく分かりません。 こっさんからやさしく教えて頂ければ有難いと思います。 よろしくお願い致します。 中村
何か原因があって結果が生じるという因果律が意識されるのは、
自分の過去を振り返り
「あんな悪いことをしたから、
今こんな苦しいめに会うのだ…」と言うように、
思いのなかでのことです。
その思いの次元を超えて「いまここ」に生きるのが、
仏教的な解脱です。
「因縁を消化する」とは「心を浄化する」ということでしょう。
ですから、
あれこれ思いを空転させず、
自他の幸せのために良いことを、
「いまここ」において身も心も投げ出して成り切って実践してください。
そうすれば、
心は自ずと浄化され、思いの次元を超えた平安の境地に至ります。
ポイントは、思いを手放すことです。
コメントへの回答(因果について)≫
カテゴリー │コメントをいただいて
次のような質問をいただいていますので、お答えします。
質問させて下さい。 私は70歳ですが、若い頃から体調が何かとすぐれません。 病気を治すには絶対に治すのだという気迫が必要だとよく言われています。 私は昔から仏教の教えに親しみ、因果応報とか因果律を教え込まれてきました。 ですから、悪いことをすればその報いがいつか現れ、その果を果たさねばならないと思っていました。 ですから、私の体調の悪いのも、過去生も含めて、悪い因を重ねたために起きているものだろうからすべて自分のせいで仕方ないと思っております。 しかし、最近よく触れるスピリチュアルの世界では、過去も未来も幻でいつまでも捉われている必要はない。「いまここ」に生きることが出来れば一瞬に幸せになれると教えています。 一方、仏教では因縁というものを消化してこそ、真の心の平安を得られると教えています。 スピリチュアルでは因縁すら幻だと言っているような印象を受けます。 私は、この因縁に関して、仏教とスピリチュアルの教えの狭間に陥っているようで悩んでいます。 仏教ではいくら懺悔しても法則としての因果応報は避けることは出来ないと教えていますが、スピリチュアルでは善も悪もなく、罪悪感に捉われることはないとのことです。 きっと、どこかに解釈の違いが潜んでいるとは思いますが、私にはよく分かりません。 こっさんからやさしく教えて頂ければ有難いと思います。 よろしくお願い致します。 中村
何か原因があって結果が生じるという因果律が意識されるのは、
自分の過去を振り返り
「あんな悪いことをしたから、
今こんな苦しいめに会うのだ…」と言うように、
思いのなかでのことです。
その思いの次元を超えて「いまここ」に生きるのが、
仏教的な解脱です。
「因縁を消化する」とは「心を浄化する」ということでしょう。
ですから、
あれこれ思いを空転させず、
自他の幸せのために良いことを、
「いまここ」において身も心も投げ出して成り切って実践してください。
そうすれば、
心は自ずと浄化され、思いの次元を超えた平安の境地に至ります。
ポイントは、思いを手放すことです。
この記事へのコメント
私はこの、よく言われている「手放す」という言葉にどうも誤解が潜んでいるように思います。
「手放す」ことというのは、行為ではなく結果として起こることなんだと思うのです。そして、その結果に至るには、因果、思いの消化を起こすということなんですが、本当に消化をするには、その思いにたいして対峙し認めることが必要だと思うのです。
さまざまな思いや出来事(に対する感情)にはその根があり、その根っことがっつり対峙すること。逃げないこと。そしてその奥に静寂を見出す。
人生はその繰り返しなのかな?と最近は感じています。
最終的には解釈すること自体にも対峙し、自分自身のアイデンティティを超えて手放すことになるのですが、ここは自殺に似た恐ろしさがありますね。
いつもブログありがとうございます。
「手放す」ことというのは、行為ではなく結果として起こることなんだと思うのです。そして、その結果に至るには、因果、思いの消化を起こすということなんですが、本当に消化をするには、その思いにたいして対峙し認めることが必要だと思うのです。
さまざまな思いや出来事(に対する感情)にはその根があり、その根っことがっつり対峙すること。逃げないこと。そしてその奥に静寂を見出す。
人生はその繰り返しなのかな?と最近は感じています。
最終的には解釈すること自体にも対峙し、自分自身のアイデンティティを超えて手放すことになるのですが、ここは自殺に似た恐ろしさがありますね。
いつもブログありがとうございます。
Posted by ash at 2013年05月31日 10:19
「手放す」と「忘れる」はやはり違うんでしょうか?
色々辛いことがあったのですが、そのこと(ひと)については考えないように努め、早3年半が過ぎました。
「去るものは日々に疎し」法をとったつもりでした。
それで大分ラクになったのも本当です。
でも、自分の中で消化されていないのだったら、根本的な解決にはなっていませんね。
先日義母と話してて思ったのですが、「許す」という行為はエネルギーの要るものかもしれません。
もしかしたら、私が「許す」なんて偉そうな立場には立っていないかもしれません。
大きな目で見たら、善悪なんて存在せず、私が勝手に「悲しんだ」または「怒りをおぼえた」だけだったのかもしれません。
色々考えると限がないのですが、根が不精なので、考えていくのもある段階で面倒になります(笑)。
やはり、きっちり対峙し、消化しなおしたほうが(反芻したほうが)いいんでしょうかねえ・・・
色々辛いことがあったのですが、そのこと(ひと)については考えないように努め、早3年半が過ぎました。
「去るものは日々に疎し」法をとったつもりでした。
それで大分ラクになったのも本当です。
でも、自分の中で消化されていないのだったら、根本的な解決にはなっていませんね。
先日義母と話してて思ったのですが、「許す」という行為はエネルギーの要るものかもしれません。
もしかしたら、私が「許す」なんて偉そうな立場には立っていないかもしれません。
大きな目で見たら、善悪なんて存在せず、私が勝手に「悲しんだ」または「怒りをおぼえた」だけだったのかもしれません。
色々考えると限がないのですが、根が不精なので、考えていくのもある段階で面倒になります(笑)。
やはり、きっちり対峙し、消化しなおしたほうが(反芻したほうが)いいんでしょうかねえ・・・
Posted by 雅蔵 at 2013年06月02日 16:51
こっさん
ご丁寧なご回答を頂きありがとうございます。
私にはこっさんのご説明はまだ十分に咀嚼されていませんが、
様々な思いの次元を越えたところに平安があり、そのためには、
ひたすら心を浄化することだと思います。
日々、手放すことを心掛けて精進していきます。
ありがとうございました。 中村
ご丁寧なご回答を頂きありがとうございます。
私にはこっさんのご説明はまだ十分に咀嚼されていませんが、
様々な思いの次元を越えたところに平安があり、そのためには、
ひたすら心を浄化することだと思います。
日々、手放すことを心掛けて精進していきます。
ありがとうございました。 中村
Posted by 中村 at 2013年06月02日 20:07
先日はご教授ありがとうございました。
一度お礼の言葉を投稿したのですが、届かなかったようでしたので
再度お礼もうしあげます。
中村さんの質問について思うこと書かせてください。
昔、曹洞宗の僧堂ではよく人権学習がおこなわれていました。
戒名などで昔差別を助長、加担してきたことから、人権人権でした。
そのころよく言われましたのが、「悪しき業論」です。
因果律の悪い使われ方です。今の病気、障害は過去の悪い行為の
結果である、また悪いことをすると障害、病気になるというものです。
悪を抑制させるための論理が、病気の人をさらに苦しめてきました。
こうした使い方は明らかに誤っています。
さしでがましいようですが、お許しください。
体調がすぐれない=悪いこと 病気即悪
ではありません。
70歳まで生きられたのは体調がすぐれずいたため、御身体を大事にされてたからかもしれません。
病気を通して生死の問題に向き合い、生死を明らかにしてきた人
にとって病気は悪ではなく、恩人になると思います。
体調がすぐれないことを悪いこととし、さらには過去まで悪いことにしてしまっては勿体ないです。何の根拠もないのですから。
仏教でいう懺悔は、自己、自我、我見を無くすことです。因果そのものになっていくこと、縁そのものになっていくことです。病気のときは全自己病気という感じです。病気に安住するということです。病気と一つになる、受け入れるということです。
本当に懺悔できれば、あらゆる結果を受け止められ、安心が得られます。
いろいろ失礼いたしました。
「質問させてください」同志ということでお許しください。
一度お礼の言葉を投稿したのですが、届かなかったようでしたので
再度お礼もうしあげます。
中村さんの質問について思うこと書かせてください。
昔、曹洞宗の僧堂ではよく人権学習がおこなわれていました。
戒名などで昔差別を助長、加担してきたことから、人権人権でした。
そのころよく言われましたのが、「悪しき業論」です。
因果律の悪い使われ方です。今の病気、障害は過去の悪い行為の
結果である、また悪いことをすると障害、病気になるというものです。
悪を抑制させるための論理が、病気の人をさらに苦しめてきました。
こうした使い方は明らかに誤っています。
さしでがましいようですが、お許しください。
体調がすぐれない=悪いこと 病気即悪
ではありません。
70歳まで生きられたのは体調がすぐれずいたため、御身体を大事にされてたからかもしれません。
病気を通して生死の問題に向き合い、生死を明らかにしてきた人
にとって病気は悪ではなく、恩人になると思います。
体調がすぐれないことを悪いこととし、さらには過去まで悪いことにしてしまっては勿体ないです。何の根拠もないのですから。
仏教でいう懺悔は、自己、自我、我見を無くすことです。因果そのものになっていくこと、縁そのものになっていくことです。病気のときは全自己病気という感じです。病気に安住するということです。病気と一つになる、受け入れるということです。
本当に懺悔できれば、あらゆる結果を受け止められ、安心が得られます。
いろいろ失礼いたしました。
「質問させてください」同志ということでお許しください。
Posted by 曹洞宗僧侶 at 2013年06月03日 17:19
曹洞宗僧侶さんへ
素晴らしいコメントありがとうございます。
これからも、時々応援のコメントをお寄せください。
私の経験や思考だけでは不十分でかたよりがちですので。
素晴らしいコメントありがとうございます。
これからも、時々応援のコメントをお寄せください。
私の経験や思考だけでは不十分でかたよりがちですので。
Posted by こっさん(kossan)
at 2013年06月03日 20:21

庭に薔薇の花が咲いています。元は一粒の種ですが、枝葉をつけ花が咲いた今となっては、根本を掘り返したところで元の種が見つかるはずもありません。今、できることは「わぁ咲いた♪咲いた♪」と喜んで眺めたり、枝葉を落とすことでしょうか。
そして人間は、「いまここ」の目の前にあってできることを集中してやることこそが、一生懸命生きること、丁寧に生きること、悔いなく生きることにつながり、その場その場で美しい花を咲かせていくことができるのだと思いました。
私も種を探す派だったので(笑)、中村さんのご質問を読んで花を眺めていたら、ふとそんなことに気がつきました。ありがとうございました。m(_ _)m
そして人間は、「いまここ」の目の前にあってできることを集中してやることこそが、一生懸命生きること、丁寧に生きること、悔いなく生きることにつながり、その場その場で美しい花を咲かせていくことができるのだと思いました。
私も種を探す派だったので(笑)、中村さんのご質問を読んで花を眺めていたら、ふとそんなことに気がつきました。ありがとうございました。m(_ _)m
Posted by 松の雪 at 2013年06月05日 07:40
曹洞宗僧侶さま
はじめまして。このたびは私の為に貴重なコメントをください
まして大変ありがとうございます。
残念ながら私のレベルでは今一つ理解が及ばないのですが、
因果律の使い方とか、「悪しき業論」とかについてもう少し、ご説明
を頂ければありがたいのですが。
もし、お時間があればお願いしたいです。 中村
はじめまして。このたびは私の為に貴重なコメントをください
まして大変ありがとうございます。
残念ながら私のレベルでは今一つ理解が及ばないのですが、
因果律の使い方とか、「悪しき業論」とかについてもう少し、ご説明
を頂ければありがたいのですが。
もし、お時間があればお願いしたいです。 中村
Posted by 中村 at 2013年06月05日 16:02
私は浄土宗僧侶で、念仏を主たる修行にしている者ですが、坐禅、瞑想、ヨガなども大好きで、最近こっさんの坐禅会に参加するようになりました。「心を浄化する」と「思いを手放す」について、自力と他力の視点から、少し書きたいと思います。自分の穢れた心が穢れた心によって穢れた心を浄化することは原理的に不可能です。自分を越えた清らかな心に触れることによって、穢れた心は浄化されるのです。同様に、自分の迷っている思いが迷っている思いによって迷っている思いを手放すことは原理的に不可能です。自分を越えた覚った思いに触れることによって、迷っている思いは手放されるのです。このような自分を越えた心と思いは、本来の自己とも呼ばれるものですが、穢れと迷いの自我にとっては、本来の自己とは絶対的他者と感じられます。浄土仏教では、自我を自力、本来の自己を他力と呼びます。私たちは自力をたのむこと、つまり、自分の努力によって迷いの無限ループに陥っているのです。どうすればよいのでしょうか。それは、いまここで、他力にまかせることです。念仏とは、如来の本願力にまかせることです。まかせることを帰命と言います。英語では、サレンダー(無条件降伏)です。自力から他力への転換なのです。それは、死後のことではなく、いまここでのできごとであり、体験であり、事実です。決して長年の修行の結果ではありません。私は坐禅、瞑想、ヨガも念仏だと思ってやっています。いまここ念仏を深めるために、こっさんの坐禅会に今後も参加予定ですので、よろしくお願いします。
Posted by 宏空(コウクウ) at 2013年06月05日 20:02
宏空さんへ
素晴らしいコメントいただきありがとうございます。
この間の坐禅会で、
「念仏もすべて、あるがままのいまここに帰ること」と言うお話でした。
まったく同感です。
私にとっても、念仏、坐禅、真言マントラ、ヨガ、氣功等、すべてが「身心脱落」の「禅定」において一つです。
これからも、よろしくお願いします。
素晴らしいコメントいただきありがとうございます。
この間の坐禅会で、
「念仏もすべて、あるがままのいまここに帰ること」と言うお話でした。
まったく同感です。
私にとっても、念仏、坐禅、真言マントラ、ヨガ、氣功等、すべてが「身心脱落」の「禅定」において一つです。
これからも、よろしくお願いします。
Posted by こっさん(kossan)
at 2013年06月07日 09:25

中村さま
悪しき業論は、そのころ具体的に言われていましたのは、障害を持つ方、
ハンセン氏病の方を例にとり、悪いことをするとそうなってしまう。
だから悪いことをしてはいけない、というものです。説法でそういう使い方をされていたそうです。病気のひとをさらに苦しめるもので、これは仏教のおしえではありません。
結果から原因をさかのぼって特定することなんかできないですし、
善悪は、出来事やものそのものにはもともと付いていないものですから。
障害は悪ではありません。一方的な勝手な決めつけのうえで論じているわけですから、やはり誤りです。
因果応報というように、「応じて報いがある」ということで悪から悪、善から善とは一概には言えないと思います。
因果やカルマの話はむずかしいですね。そのころのテキストも理屈っぽくて
こんがらがるだけで、なんか辻褄があわない、つっこみどころ満載という感じでした。
わたしが申し上げたいと思いましたことは、「私の体調の悪いのも、過去生も含めて、悪い因を重ねたために起きているものだろうからすべて自分のせいで仕方ないと思っております」とお考えになることはないと、結びつけることは勿体ないということです。
ただ長年馴染んできた考えかたが手放しにくいようでしたら、良い原因を今から沢山つくればよいのではないでしょうか。自宅のまわりを掃いたり、神社、お寺の境内のお掃除をしたりと小さなことでも大きな功徳があるとお釈迦様もいわれています。人の喜びが自分に返ってきて、ご自身のこころが喜びや優しい気持ちで充たされると思います。
国立大学で教授をしていた飯田さんという方が、生きがいの創造という本を書いています。生まれ変わり、輪廻転生についての本ですが、この中に(たしかこの本だと思いますが)障害をもって生まれてきた方は、自らそれを選んで生まれてきた、思いハンディーを自ら背負い、魂を磨くため選んで生まれてきたという話もありました。
輪廻なんていいますと、眉唾と受け取るかたもいるとおもいますが、然るべき精神科の医師が患者に退行催眠をかけたところ子供時代をとおりこして前世にもどってしまい、そのころの記憶をはなしたという記録が沢山あります。
然るべき人たちが、まじめに研究されたものをまとめた本です。
一度投稿したのですが、名前を書かなかったきがしますので、再度投稿させていただきます。
悪しき業論は、そのころ具体的に言われていましたのは、障害を持つ方、
ハンセン氏病の方を例にとり、悪いことをするとそうなってしまう。
だから悪いことをしてはいけない、というものです。説法でそういう使い方をされていたそうです。病気のひとをさらに苦しめるもので、これは仏教のおしえではありません。
結果から原因をさかのぼって特定することなんかできないですし、
善悪は、出来事やものそのものにはもともと付いていないものですから。
障害は悪ではありません。一方的な勝手な決めつけのうえで論じているわけですから、やはり誤りです。
因果応報というように、「応じて報いがある」ということで悪から悪、善から善とは一概には言えないと思います。
因果やカルマの話はむずかしいですね。そのころのテキストも理屈っぽくて
こんがらがるだけで、なんか辻褄があわない、つっこみどころ満載という感じでした。
わたしが申し上げたいと思いましたことは、「私の体調の悪いのも、過去生も含めて、悪い因を重ねたために起きているものだろうからすべて自分のせいで仕方ないと思っております」とお考えになることはないと、結びつけることは勿体ないということです。
ただ長年馴染んできた考えかたが手放しにくいようでしたら、良い原因を今から沢山つくればよいのではないでしょうか。自宅のまわりを掃いたり、神社、お寺の境内のお掃除をしたりと小さなことでも大きな功徳があるとお釈迦様もいわれています。人の喜びが自分に返ってきて、ご自身のこころが喜びや優しい気持ちで充たされると思います。
国立大学で教授をしていた飯田さんという方が、生きがいの創造という本を書いています。生まれ変わり、輪廻転生についての本ですが、この中に(たしかこの本だと思いますが)障害をもって生まれてきた方は、自らそれを選んで生まれてきた、思いハンディーを自ら背負い、魂を磨くため選んで生まれてきたという話もありました。
輪廻なんていいますと、眉唾と受け取るかたもいるとおもいますが、然るべき精神科の医師が患者に退行催眠をかけたところ子供時代をとおりこして前世にもどってしまい、そのころの記憶をはなしたという記録が沢山あります。
然るべき人たちが、まじめに研究されたものをまとめた本です。
一度投稿したのですが、名前を書かなかったきがしますので、再度投稿させていただきます。
Posted by 曹洞宗僧侶 at 2013年06月09日 15:03
曹洞宗僧侶さま
私は3ケ月前に曹洞宗僧侶さまから「悪しき業論」についてコメントを頂いた中村です。
すぐにお礼を言うべきところ、私がうかつにも僧侶さまのコメントを見過ごしてしまい真に申し訳ありません。
今日、久しぶりにこっさんのブログを拝見したところ、私宛のコメントがあり、びっくりしました。
私がコメントをお願いしながらご返事を見落とすのは大変失礼なことと深くお詫び申し上げます。
私としては、このブログにいらっしゃっている皆様のご高説を読ませて頂き、とても為になると感謝しています。
でも、悲しいかな、色々な観念に縛られた私には、すぐには理解出来ず、自分自身の未熟さが辛いところです。
しかし、地道に一歩一歩修行して行こうと思います。
これからもご指導の程、よろしくお願い申し上げます。
私は3ケ月前に曹洞宗僧侶さまから「悪しき業論」についてコメントを頂いた中村です。
すぐにお礼を言うべきところ、私がうかつにも僧侶さまのコメントを見過ごしてしまい真に申し訳ありません。
今日、久しぶりにこっさんのブログを拝見したところ、私宛のコメントがあり、びっくりしました。
私がコメントをお願いしながらご返事を見落とすのは大変失礼なことと深くお詫び申し上げます。
私としては、このブログにいらっしゃっている皆様のご高説を読ませて頂き、とても為になると感謝しています。
でも、悲しいかな、色々な観念に縛られた私には、すぐには理解出来ず、自分自身の未熟さが辛いところです。
しかし、地道に一歩一歩修行して行こうと思います。
これからもご指導の程、よろしくお願い申し上げます。
Posted by 中村 at 2013年09月13日 16:09
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