2012年11月05日20:11
方広寺専門道場での大接心参加も無事終わりました。
あまり無理はできませんが、この頃益々よく坐れるようになってきたと実感しています。
ヨガで体が柔軟になっているのと、ノルディックウオーキングなどで体幹が安定してきたおかげだろうと思います。
坐っていると、自分が中空の太い竹になったような感じで、スコンと身心脱落して禅定に入ることができます。
禅定に入ると「スーパー宇宙温泉」につかっているように安楽になり、時間も脚の痛みもあまり気になりません。
坐禅の行というのは何かを得るのではなく、
「身心脱落」する、身も心も脱落して解放するための努力です。
つまり、何の努力もしない全くのお任せの状態になるよう努力するのです。
自力のきわみにおいて他力に転換するのです。
温泉に、誰も靴をはいたり服を着たままでは入りません、
全部脱いで素っ裸になって体をお湯にゆだねるでしょう。
そのように身心を脱落して素っ裸の無の器になるのが坐禅です。
本来誰もがスーパー宇宙温泉の「慈しみと愛」につつまれ生かされているのです。
余計な服を着たり靴をはいているので、温泉の素晴らしさが体感できないのです。
あれこれの思いや、既成の価値観、世間体などが服や靴です。
社会生活をするのには服も靴も必要でしょうが、
一日一度は素っ裸で温泉につかって身心を癒やし英気を養いましょうということで、皆さんに坐禅を勧めているわけです。
スーパー宇宙温泉の成分は「慈しみと愛」です。
普通に生きるのがなかなか困難な今の時代こそ、
坐禅による「慈愛」の温泉で癒やされ英気を養いましょう。
【禅堂の作法と坐禅の仕方】
http://www.youtube.com/watch?v=xhBNGWbRDGo&context=C3b5f9c2ADOEgsToPDskIYsGtxHPtrVslfEbW2r0jM
慈しみと愛≫
カテゴリー │坐禅入門
方広寺専門道場での大接心参加も無事終わりました。
あまり無理はできませんが、この頃益々よく坐れるようになってきたと実感しています。
ヨガで体が柔軟になっているのと、ノルディックウオーキングなどで体幹が安定してきたおかげだろうと思います。
坐っていると、自分が中空の太い竹になったような感じで、スコンと身心脱落して禅定に入ることができます。
禅定に入ると「スーパー宇宙温泉」につかっているように安楽になり、時間も脚の痛みもあまり気になりません。
坐禅の行というのは何かを得るのではなく、
「身心脱落」する、身も心も脱落して解放するための努力です。
つまり、何の努力もしない全くのお任せの状態になるよう努力するのです。
自力のきわみにおいて他力に転換するのです。
温泉に、誰も靴をはいたり服を着たままでは入りません、
全部脱いで素っ裸になって体をお湯にゆだねるでしょう。
そのように身心を脱落して素っ裸の無の器になるのが坐禅です。
本来誰もがスーパー宇宙温泉の「慈しみと愛」につつまれ生かされているのです。
余計な服を着たり靴をはいているので、温泉の素晴らしさが体感できないのです。
あれこれの思いや、既成の価値観、世間体などが服や靴です。
社会生活をするのには服も靴も必要でしょうが、
一日一度は素っ裸で温泉につかって身心を癒やし英気を養いましょうということで、皆さんに坐禅を勧めているわけです。
スーパー宇宙温泉の成分は「慈しみと愛」です。
普通に生きるのがなかなか困難な今の時代こそ、
坐禅による「慈愛」の温泉で癒やされ英気を養いましょう。
【禅堂の作法と坐禅の仕方】
http://www.youtube.com/watch?v=xhBNGWbRDGo&context=C3b5f9c2ADOEgsToPDskIYsGtxHPtrVslfEbW2r0jM
この記事へのコメント
いつもありがとうございます
良いのかわかりませんが、向さんのCDを聴きながら朝食のトーストを食べています
1日のはじまりが爽やかになります
良いのかわかりませんが、向さんのCDを聴きながら朝食のトーストを食べています
1日のはじまりが爽やかになります
Posted by ショコラ at 2012年11月06日 07:11
今度からスーパー宇宙温泉に浸かっている気分を味わいながら瞑想します。「スーパー宇宙温泉」気に入りました^ ^
Posted by Tomoe at 2012年11月06日 17:38
先日から調べていることがありますが、よく分からないことがあります。
慈悲 と 愛
この2つは、どう違うのでしょうか。
ともに、一般的な使われ方とは、意味が違うように考えています。
愛は、僕は、そのまま受容するものと考えています。
慈悲は、…自他を平等に扱う…ということでよいのでしょうか。
慈悲 と 愛
この2つは、どう違うのでしょうか。
ともに、一般的な使われ方とは、意味が違うように考えています。
愛は、僕は、そのまま受容するものと考えています。
慈悲は、…自他を平等に扱う…ということでよいのでしょうか。
Posted by とあとあ at 2012年11月06日 19:59
とあとあさんへ
仏教用語としては、「慈悲」がつかわれるようです。
「慈愛」はより一般的な言葉で、言われるように
「あるがままを受容し、慈しむ」という意味にとればよいと思います。
「慈悲」について『岩波仏教辞典』について次のように載っています。
(慈悲)は元来、他者に利益や安楽を与えるいつくしみを意味する(慈)(maitri友愛)と、
他者の苦に同情し、これを救済しょうとする(抜苦)思いやりを表す(悲)(karuna)の両語を併記したもの。
仏教用語としては、「慈悲」がつかわれるようです。
「慈愛」はより一般的な言葉で、言われるように
「あるがままを受容し、慈しむ」という意味にとればよいと思います。
「慈悲」について『岩波仏教辞典』について次のように載っています。
(慈悲)は元来、他者に利益や安楽を与えるいつくしみを意味する(慈)(maitri友愛)と、
他者の苦に同情し、これを救済しょうとする(抜苦)思いやりを表す(悲)(karuna)の両語を併記したもの。
Posted by こっさん(kossan) at 2012年11月06日 21:06
こっさん(kossan)へ
早速に、ご回答、本当にありがとうございました。
とあとあ
早速に、ご回答、本当にありがとうございました。
とあとあ
Posted by とあとあ at 2012年11月06日 21:58
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