2012年10月26日21:42
なぜ坐禅・瞑想するのか≫
カテゴリー │坐禅入門
先回(10月22日)のブログで、
「人生はどこにも向かっていない」という話をしました。
「どこにもない」は英語で“nowhere”
この(孝ちゃん流)語源は“now+here”で「いま・ここ」(^▽^)
ですから
「人生はどこにも向かっていない、いまここに向かっている」となります。
京都大徳寺の開山大燈国師は、
「無理会(むりえ)のところに向かって、究め来たり究め去るべし」と言っています。
いまここに向かうとは、
いまここの無理会の、理屈の思考では会することのできない、
思考を越えた心の源、心のふるさとに向かうのです。
ですから、なぜ坐禅・瞑想をするかといえば、
無理会の心源に向かう、心のふる里に回帰するためです。
禅は日常すべてを、
「無理会のところに向かう」という心の方向性で生きようとするものです。
一切の理屈・価値観のないところで生きる訓練です。
慣れてくれば、こんな安楽なご機嫌な生き方はありません。
今度の日曜日(28日)は祥光寺の坐禅会です。
里帰りをするような気持ちで、
どなたでも気軽に参加してください。
「人生はどこにも向かっていない」という話をしました。
「どこにもない」は英語で“nowhere”
この(孝ちゃん流)語源は“now+here”で「いま・ここ」(^▽^)
ですから
「人生はどこにも向かっていない、いまここに向かっている」となります。
京都大徳寺の開山大燈国師は、
「無理会(むりえ)のところに向かって、究め来たり究め去るべし」と言っています。
いまここに向かうとは、
いまここの無理会の、理屈の思考では会することのできない、
思考を越えた心の源、心のふるさとに向かうのです。
ですから、なぜ坐禅・瞑想をするかといえば、
無理会の心源に向かう、心のふる里に回帰するためです。
禅は日常すべてを、
「無理会のところに向かう」という心の方向性で生きようとするものです。
一切の理屈・価値観のないところで生きる訓練です。
慣れてくれば、こんな安楽なご機嫌な生き方はありません。
今度の日曜日(28日)は祥光寺の坐禅会です。
里帰りをするような気持ちで、
どなたでも気軽に参加してください。
この記事へのコメント
いつも、読ませていただいています。御本、‘みんながブッダ‘のお経、響きます。いい声だなあと思って聞いています。 20年くらい前でしょうか、海外で、湖と一体になる体験をしました。このブログで、それが、無理会であることを知りました。 とても言葉にできない、その体験を、また味わいたいと思いながら、いまだに、できていません。味わいたいなあ。。。 いつも発信ありがとうございます。応援しています!
Posted by ruru at 2012年10月30日 12:55
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