僧堂生活③

カテゴリー │僧堂生活

坐禅の要点は、①身を調え、②息を調え、③心を調えることですが、この頃私は、一番目の「身を調える」ということは、生き方全体にかかわることだと思うようになりました。

そこで今回は、僧堂の具体的な生活ではなく、先ずは「身を調える」ことの意味をお話してみましょう。
阿部さんも言われているように、人生で一番大事な根本的なことは「悟る」ことです。「悟る」と、大上段にかまえたように言うと、多くの人は、自分とは関係のない、偉い聖者だけが達成できる、何か特別なことのように思われるかも知れませんが、要は「迷い」から解放され、あたりまえの地平に降り立つことです。

もし、あたりまえの地平に立つのでなければ、幻想の中をさ迷う夢遊病者みたいなもので、リアルな本当に充実した健全な人生を歩むことは出来ません。
ですから、「悟る」ということは、本来の生に開眼することであって、ことさら、悟ると言ったり、その自覚がなくとも、多くの人は立派に悟って生きていると、私は思っています。
もしそうでなかったら、世の中は夢遊病者の集まりみたいになってしまいますから。

では、「本来の生に開眼」するとは、どういうことでしょう?

簡単に言うと、自分一人で生きているのではなく、ともに「大いなる命」に生かされて生きている、さらには、「大いなる命」そのものだと自覚することです。
その「大いなる命」は、神とか、仏とか、ダーマとか、サムシング・グレートとか、無とか、無量寿・無量光とか、昔からいろいろの言葉で表現されてきました。
しかし、「大いなる命」は、私たちの究極のよりどころですから、言葉の数だけ違った究極のよりどころがあるはずはなく、一つの普遍的な真理、本来言葉や思いを超えたものを、その人の生きている社会の価値体系や体験によって受けとめ表現するので、違うように錯覚してしまうのでしょう。

私の尊敬する精神科医で、神谷美恵子(1914~1979)という素晴らしい女性がいます。
名著「生きがいについて」(みすず書房)ほか、多くの著作があり、美智子皇后の相談役でもあったそうです。
彼女が人生に開眼したのは、21歳の時、当時不治の病とされた結核で軽井沢の山荘で療養していた時です。その時の体験を彼女は次のように語っています。


何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真っ暗な袋小路としかみえず、発狂か自殺か、この二つしか私の行きつく道はないと思いつづけていたときでした。突然、ひとりうなだれている私の視野を、ななめ右上からさっと稲妻のようなまぶしい光が横切りました。と同時に私の心は、根底から烈しいよろこびにつきあげられ、自分でもふしぎな凱歌のことばを口走っているのでした。「いったい何が、だれが、私にこんなことを言わせるのだろう」という疑問が、すぐそのあとから頭に浮かびました。それほどこの出来事は自分にも唐突で、わけのわからないことでした。ただたしかなのは、その時はじめて私は長かった悩みの泥沼の中から、しゃんと頭をあげる力と希望を得たのでした。それが次第に新しい生へと立ち直って行く出発点となったのでした。

仏教でも、悟りの地平を無量光というように「光」ととらえていますね。
この神谷美恵子さんの私がとても感銘を受けた言葉を紹介しましょう。

    「私の一生はただ恵みをうけるための器であった」


「身を調える」とは、恵みをうけるための器、清らかな空の器となることです。


思わず長い文章になってしまいました。この続きは、次回のブログで。

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この記事へのコメント
最近、阿部さんがブログにて、
“「いまここ」や「目覚め」について、たくさん語ってきたけれど、もしこの人生で究極の気づきが必要なら、それは然るべき時に起きるだろうし、必要でなければ起きることはないだろう”

と書かれていました。

正直、自分は今生では「目覚め」の体験できないのかも、
なんて思ってしまって、なんだか寂しくなってしまったのですが、
今日の向さんの記事を読んで、体験できなくてもいいや!と素直に思えました。

どうやら、「目覚めの体験を“しなければいけない”」と思い込んでいたようです。
いまここ塾のみなさんに触れあえただけでも、すでに十分な気がします。
もともと、輝きまくっている光が僕の中にもあるんですよね。

やっとしっくり来ました。
とりあえず、器のお掃除に心を込めてみます。

いつも更新ありがとうございます。
楽しみにしています。
Posted by てぃも at 2011年06月22日 01:50
おはようございます!今日の記事を読んで、ほっとしました。
シンプルによりシンプルに感じる素直さ・・思い出しました^^♪
いっつも、ありがとうございます!
Posted by ひとみ at 2011年06月22日 09:06
てぃもさん 私も全く同じ事を感じていました。
阿部さんや向さんを知って何年も過ぎ、瞑想もやってみました。でも、いまだに眠りから覚める気がないようです。(^_^;)
ですが...「いまここ塾」や向さんのブログ、阿部さん達を通して今まで知らなかった人や、本、禅の世界... こんなにたくさんの恵みを受けていた事に気づき、有り難くなりました。
最近では、風の心地よさや鳴き始めたセミの声に気づく生活を楽しんでいます。(今、カレーの香りがしてきました)

向さん、今日もありがとうございます。てぃもさんのコメントにも感謝です。
Posted by moku at 2011年06月22日 09:46
>>moku 様
あわわ、恐縮でございます。
でも、すごく嬉しいです。
いまここ塾のんびり組として、
ゆる〜く過ごしましょう☆(笑)

こちらこそ、感謝、感謝です。

ちなみに僕も今夜はカレーでした。
Posted by てぃも at 2011年06月22日 23:49
はじめまして。
いつも更新楽しみにしています。
今回もとても素敵なお話、ありがとうございます。

みなさんすごいです‥。ぼくは正直まだ‥「目覚めたい」という思いを手放せないでいます。 
できるだけ早く目覚め、生き生きと自分らしく、そして天を信頼して生きたいと願って止みません。

向さんや阿部さんのお話は、頭では理解できているつもりなのですが、体験を伴っていないため仮説の域を越えることができず、見性を体験できればすべてが理解できるだろうと、ますます目覚めへの思いを強めています。

向さん、こんなぼくですがアドバイス頂けたら幸いです。
Posted by 歌丸 at 2011年06月23日 10:45
はじめまして。
いつも更新楽しみにしています。
今回もとても素敵なお話ありがとうございます。

みなさんすごいです‥。ぼくは正直まだ‥「目覚めたい」という思いを手放せないでいます。
少しでも早く目覚めたい。
そして生き生きと自分らしく 天の流れを信頼して生きていきたい。と願って止みません。

向さんや阿部さんのお話はとてもわかりやすいので、自分なりに頭では理解しているつもりなのですが、体験を伴っていないため仮説の域を越えることができず、見性を体験できればすべてが理解できるだろう!と、
ますます「目覚め」に対する思いを強めています。

しかし現状は深い霧の中を手探りで歩いている状態です‥

向さん、こんなぼくですがアドバイス頂けたら幸いです。
Posted by 歌丸 at 2011年06月23日 12:00
『身を整える』いつもその意識で生きていけるよう柔らかいわたしでありたいと思います。
素敵なお話をありがとうございます!

次回のブログも楽しみにしています。
お忙しいと思いますが、よろしくお願いいたしますね。


全ての方が光と共に生きていること思い出せるといいなぁ♪
Posted by 南国でQ♪ at 2011年06月24日 10:42
向様初めまして、しま猫と申します
阿部さんのブログから、こちらを知りました
とても穏やかで、優しくて…
私が知りたいと思っていたことが、わかりやすく書かれていて…
素敵な出会いに感謝します
Posted by しま猫 at 2011年06月26日 10:18
    「私の一生はただ恵みをうけるための器であった」


「身を調える」とは、恵みをうけるための器、清らかな空の器となることです。


名言過ぎた!
Posted by ミギノ at 2011年06月27日 12:11
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