禅問答

カテゴリー │僧堂生活

izumiさんから質問をいただいています。
臨済さんや黄檗さん、徳山さんなどが弟子をなぐったり、棒で叩いたりというお話がよくでてきますが、それはどんな意味があるのですか?

禅マスター(老師)である師匠の使命は、弟子を見性(悟り)に導き、禅的な人格形成をうながすことです。

僧堂で共に過ごす日常生活そのものが弟子の指導となるのですが、一般に禅問答といわれる入室参禅(にっしつさんぜん)が、特に重要な指導の方法になっています。

臨済禅の特徴は、
「直指人心、見性成仏(じきしにんしん けんしょうじょうぶつ)」と言われます。
文字や言葉によらず、直に人の本心・仏心を指ししめして、弟子を見性させ(悟らせ)仏(覚者)とするといった意味です。

まだ見性していない弟子と禅マスター(老師)の違いは、弟子が言葉による思いや価値判断の自我の世界に閉じこめられたままであるのに対して、
老師は、無思考の天地いっぱいの無・空の境地にあって、常に言葉をかいさない身心一如の全一の働きに生きているところでしょう。

弟子が
思考のレベルで老師に問うても、
老師は、
無思考のレベルの全体作用において答えているわけです。
(まだ言葉を知らない乳幼児もこのレベルにあります、赤ん坊は本来の生命の身近なお手本だと思います)


「無相の相を相として」(白隠禅師坐禅和讃)というように、空の純粋生命は形をこえたものであり、またどのような形にも自由に表現されるものです。

徳山の棒、臨済の喝、趙州の喫茶去(お茶でも飲みなさい)などなど、思考による意味を超えた全一作用の、それぞれの祖師の独自な表現と言えます。


そうした、祖師の言行や弟子とのやりとりが禅の語録にのこされていて、それを公案の禅問答の課題として、その境地になりきることで、悟りの境地を徹底させるのが入室参禅といわれる、今でも臨済禅で行われている修行です。


大接心では、日に3、4回参禅があります。弟子は禅堂で坐禅三昧になったうえで、ひとり一人喚鐘(かんしょう)を鳴らし、老師の部屋に入り、徹底した信頼と敬意の心をあらわす三拝をして、全身全霊をもって課題への自分の答えを投げ出します。

この参禅における、一対一の真剣勝負が臨済禅の生命であり真骨頂といえるでしょう


禅問答




  • LINEで送る

同じカテゴリー(僧堂生活)の記事
身辺を調える
身辺を調える(2015-10-30 13:51)

偉大なる平凡
偉大なる平凡(2014-12-04 11:11)

得度式
得度式(2013-12-05 20:51)

早寝早起き
早寝早起き(2013-07-17 21:22)


 
この記事へのコメント
ご教示いただきましてありがとうございました。
色々書いて、お礼の投稿をしたのですが、届かなかったようです。
ご丁寧にありがとうございました。
Posted by izumi at 2014年07月09日 21:03
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
禅問答
    コメント(1)