2011年08月27日10:48

(裏庭の露草です)
今日は、有名な『趙州洗鉢』(じょうしゅうせんぱつ)の公案を紹介しましょう。
中国の唐代に、趙州禅師(778-897)という、120歳までも長生きをし「唇に光を放つ」と言われるほど言葉たくみに真理を示された、素晴らしい禅僧がおられました。
ある時、禅堂に入門したばかりの僧が、禅の真理、悟りの境地とはどんなものか知りたかったのでしょう、
「私は新参の雲水です。どうか老師ご教示をお願いします」と、趙州禅師に言いました。
すると、趙州禅師は、
「おまえはもう、朝のお粥は食べたのか?」と聞かれました。
その僧が、
「はい、もうすませました」と答えると、
禅師は言われました、
「それなら、茶碗を洗っておきなさい」
そこで、その僧はハッと悟ったということです。
さすが、趙州禅師!
「あるがままで良い」とも、「いまここを生きよ」とも、ことさら言わずに、
まさに「あるがまま」にくつろぎ、今この瞬間を生きる禅スピリットを体現されています。
真理は、日常茶飯事の生活のただ中にあるのです。
「深くこの生を愛すべし」(会津八一)
いまここの生を愛し味わい楽しみ、心をこめて丁寧に生きていきましょう。
『趙州洗鉢』(じょうしゅうせんぱつ)≫
カテゴリー │禅の物語

(裏庭の露草です)
今日は、有名な『趙州洗鉢』(じょうしゅうせんぱつ)の公案を紹介しましょう。
中国の唐代に、趙州禅師(778-897)という、120歳までも長生きをし「唇に光を放つ」と言われるほど言葉たくみに真理を示された、素晴らしい禅僧がおられました。
ある時、禅堂に入門したばかりの僧が、禅の真理、悟りの境地とはどんなものか知りたかったのでしょう、
「私は新参の雲水です。どうか老師ご教示をお願いします」と、趙州禅師に言いました。
すると、趙州禅師は、
「おまえはもう、朝のお粥は食べたのか?」と聞かれました。
その僧が、
「はい、もうすませました」と答えると、
禅師は言われました、
「それなら、茶碗を洗っておきなさい」
そこで、その僧はハッと悟ったということです。
さすが、趙州禅師!
「あるがままで良い」とも、「いまここを生きよ」とも、ことさら言わずに、
まさに「あるがまま」にくつろぎ、今この瞬間を生きる禅スピリットを体現されています。
真理は、日常茶飯事の生活のただ中にあるのです。
「深くこの生を愛すべし」(会津八一)
いまここの生を愛し味わい楽しみ、心をこめて丁寧に生きていきましょう。
この記事へのコメント
ありのままの「命」を感じますね。
本日もよろこびの中で過ごします。
本日もよろこびの中で過ごします。
Posted by 骨格調整ビーイング at 2011年08月27日 11:18
ありがとうございます
なぜでしょう
涙が でます
なぜでしょう
涙が でます
Posted by ぐれ at 2011年08月27日 11:51
(笑)それ以上もそれ以下もなく、ただ目の前にあるやるべき事さえやればそれで十分。(☆。☆)
大いに悩んで、人生ゲームを楽しむのも有りかも。
(*´∀`*)
大いに悩んで、人生ゲームを楽しむのも有りかも。
(*´∀`*)
Posted by 森の香り at 2011年08月27日 13:20
私も じわっと涙があふれてきます。
こっさま、ありがとうございます。
今から主人と晩御飯デート行ってきます♪
こっさま、ありがとうございます。
今から主人と晩御飯デート行ってきます♪
Posted by ブルーエンジェル at 2011年08月27日 16:49
日常の中にこそ、悟りがある…
気付きにはまだいたっておりませんが、
311以降、瞬間瞬間をありがたく過ごさせていただいています。
ありがとうございます。
合掌
気付きにはまだいたっておりませんが、
311以降、瞬間瞬間をありがたく過ごさせていただいています。
ありがとうございます。
合掌
Posted by まゆ at 2011年08月27日 18:22
こっさんへ
『趙州洗鉢』の公案で、新参の雲水がすぐに悟ることが
できたとのお話についてお伺いします。
この雲水のような一宿覚のような人が居ることは承知
していますが、一般の人の座禅工夫はどのくらい継続
すれば見性に至るものなのでしょうか?
私は、どのくらいの時間を瞑想に費やせば見性に至るか
を禅の場合で考えたのですが、過去の私の知る事例を考
えるとほぼ毎日少しでも座禅し、その座禅累積時間が
700時間に至る頃までには見性するのが標準のように
思えます。
禅堂で指導をされた経験上では、どのような感じでしょうか?
ご意見を頂ければ幸いです。
『趙州洗鉢』の公案で、新参の雲水がすぐに悟ることが
できたとのお話についてお伺いします。
この雲水のような一宿覚のような人が居ることは承知
していますが、一般の人の座禅工夫はどのくらい継続
すれば見性に至るものなのでしょうか?
私は、どのくらいの時間を瞑想に費やせば見性に至るか
を禅の場合で考えたのですが、過去の私の知る事例を考
えるとほぼ毎日少しでも座禅し、その座禅累積時間が
700時間に至る頃までには見性するのが標準のように
思えます。
禅堂で指導をされた経験上では、どのような感じでしょうか?
ご意見を頂ければ幸いです。
Posted by あまのん at 2011年08月27日 22:40
尽十方
そうか!
とてもよくわかっ!
日々新たなり。
そうか!
とてもよくわかっ!
日々新たなり。
Posted by jinjippo at 2011年08月28日 03:47
それなら、茶碗を洗っておきなさい。
洗っております。
それなら、、、
はじめまして
ぼんげん、です。
洗っております。
それなら、、、
はじめまして
ぼんげん、です。
Posted by 品玄 at 2011年08月29日 11:55
『趙州洗鉢』のお話、とても分かりやすかったです。
こっさま、どうもありがとうございます。
どことなく儚い露草、昔から大好きです。
あるがままに美しく生きてますよね。
こっさま、どうもありがとうございます。
どことなく儚い露草、昔から大好きです。
あるがままに美しく生きてますよね。
Posted by eagle at 2011年08月31日 00:03
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