唯識⑮ー悟りについて

カテゴリー │仏教・禅思想

今日は「悟り」「見性」について、明らかにしておきたいと思います。

ブルーエンジェルさんから、こんなコメントをいただいていました。

「悟りを得たら、覚醒したら、すべてが薔薇色でキラキラして、もう何も問題はなく、平安に包まれた素晴らしい人生になると思っていました」と。

同じように、多くの人が「悟り」「見性」「覚醒」というと、何か私たちの日常とは違う特別な体験をすることと思っているかもしれませんが、そうではありません。

特別に感じるのは、長い迷いの暗いトンネルから抜け出した瞬間は、ごく普通の景色が異常に輝いて見えるようなものです。

「覚醒」とは迷いから覚めることですし、「悟り」とは自我によって作られた「サヲトル」こと、「見性」とは、「自性すなわち無性にて」(白隠禅師)と言うように、自我の意識の壁を打ち破ることで無性な無心の自己に帰ることです。

いずれも、想念の世界を抜け出して、いまここのあるがままのリアリティーにおちつくことです。
ですから、禅の道は歯を磨いたりお茶を飲んだりの日常のリアル(真実の)な生活にこそあるのです。

私は、臘八大接心で一時魔境に近い体験もしましたが、結局たどりついたのは何の特別なこともないあるがままの地平なのです。

コメントに「和尚さんは悟っていますか?」という質問があったようですが、

私は悟っています。

そして、皆さんも悟っています。

だって、皆いまここのあるがままの地平に生きているのですから。


人は、想念にとらわれて勝手に迷っているだけです。
そんな人もあるがままの地平に生きているのです。
つまり「悟り」という何か実体化するような特別なものはないのです。等しくあるのはいまここのあるがままの地平のみです。

普通の平常心の人も、酒を飲んでフラフラしている人も、同じ大地を歩いているようなものです。

ですから、「和尚さんは悟っていますか?」という質問は、「和尚さんは大地に立って歩いていますか?」と聞かれたのと同じことなのです。
それ以外に私には「悟り」ということはありませんし、知りません。

禅の修行の素晴らしいところは、私を魔境にとどめ、自分を「最終解脱者」などとお酒に酔ったような錯覚に陥らせることない、健全な修行体系と明眼の師があることだろうと思います。


でも、特別に禅の修行をしなくても、自我の思いにとらわれることなく、しっかりと大地に脚をつけ健全に生きている人は多いと思います。

「いまここに全知全能全生命力」と、いまここ塾同志・井上剛一さんが言うように、人や物と一つになるぐらいに心をこめて、目前のことを成りきって行えば、心があるがままの地平から遊離することはありません。
その人は、「悟り」ということさらな意識はなくても、自他一如の「サトリ」の道を歩いているのです。

むしろ、禅の修行の「悟り」は、ある意味人為的でことさらな感じがするし、何か特別意識を持ってしまうようなところがあると思います。

私自身も見性からしばらくは、そんな特別意識がなかなか抜けずに少し有頂天になっていたように思います。


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この記事へのコメント
おはようございます。

1月9日の講演を聞きに行ったものです。

和尚さんの「ああ!そうか!」とか「ああ!阿部さんの言い方わかりやすい」

など。  きっとその時の気づきを楽しんでおられるようで、こちらが幸せな

気分になりました。

今日のブログも、とても分かりやすかったです。

きっと、講演に行く前は、座禅をして特別な自分になろう!と思っていましたが、

これからは、この間の和尚さんの様に、日々の中に「気づき」を楽しんで

いけたら・・・・とおもいました。

ありがとうございました。

宿泊の座禅会。楽しみにしています。l
Posted by ポネポネ at 2012年01月26日 08:57
こっさま、おはようございます。


「覚醒」「悟り」「見性」
すごく分かりやすく説明していただき、ありがとうございます。

どこまでも 今のあるがまま なのですね。

何故、想念(自我の迷い・くもり)が、 ふらふらと あるがままから離れていくのでしょうか。

何故 「想念」にとりつかれてしまうのでしょうか

想念がなかったら あるがままに落ち着いくことができるのに。

だから「禅」があるのだよ・・・と、ぐりぐりと堂々巡りをする
この思考であります(--) 笑

見性後の特別意識から、どうなされたのか すごく楽しみです(^^)

しっかし、、簡単な言葉でさらりと説明できる こっさまって すっごいなあ~!
Posted by ブルーエンジェル at 2012年01月26日 09:13
以前ある方が、「悟りはセックスの何億倍も気持ちいい」と言われてたのを拝聴しまして、私は誤解していました。
そのような誤解を解いていただいてありがとうございます。このブログを拝見して、これからも、いまをあるがままのリアリティーを生きていこうと思いました。このような記事を書いていただき、ほんとうにありがとうございました。
今日の記事を拝見しまして、世の中には「悟り」というものを、誤解されておられる求道者の方々も、私だけではなく、おられるかも知れないと、勝手に推察した次第です。
貴重な記事をまことにありがとうございました。
Posted by 誤解を解いていただきありがとうございます at 2012年01月26日 10:17
質問です。
「悟り」「見性」「覚醒」のあと、魔境に陥り、そこに留まるケースもあるのでしょうか?
是非知りたいです。
お時間のあるときに、ご回答下さい。
Posted by 雅蔵 at 2012年01月26日 15:52
唯識シリーズの影響で、私も、自己流の座禅瞑想をする際に、最近は、「無」になろうとします。老師の方と、こっさまの間で、無という言葉が、何度か出てきました。

ですが、無とは、何でしょうか。実は、よくわかっていないのです。
よくわかっていないものに、なろうとしていることに気づきました。

無について、お話しして頂ければ、幸いです。
自分でも、探すつもりですが。

自分なりの無は、呼吸をとめるみたいに、思考を停止することを行います。
Posted by 風に揺れる葦は道士 at 2012年01月26日 21:29
尽十方
はらはら、ドキドキ、目が離せなかった。自分の血肉になっちゃったかも。
Posted by jinjippo at 2012年01月26日 22:45
スッキリしました!!!

こっさま、ありがとうございました\(^o^)/

もう、悟ろうなんて、迷いません。

ただただ、いまここに、生かさせていただきます。

万物とともに。。。

愛とともに。
Posted by そら at 2012年01月26日 23:09
歯車がゆっくりカチッ、カチッと回って行くように、自我が、あらゆる価値観や意味と共に、少しずつ剥がれていきます。
ちょっと怖くて、すごくおもしろい~~~
Posted by YY at 2012年01月26日 23:23
こっさん、魔境の話とか感覚がおかしくなった話とか見性についてとか、包み隠さず話してくれて有り難うございます(^人^)拝

私は悟りや覚醒を目的にして苦しみから抜け出そうとはしてないんですけど
それはまぁ悟るにはああしなさいこうしなさい、覚醒を促すにはああすべきこうすべきなんていうのが面倒臭いってのが一番なんですがw
見性して世界が変わる、悟れば世界が違う、覚醒すれば苦しみがない、
しかしその為にあがいてもがいて今の私は幸せなのか?今あがいていて幸せと言えるのか?という疑問を問いかけたからなんですね。
今幸せを感じなくても目覚めれば幸せを感じる、それは解るんですけど、
今不足不満枯渇を感じていたいか?というとノーなんですよ。
だから悟りは諦めた…というか、悟る手立てを建てない事にしました。
覚醒や目覚めは緻密に計画するものではないんじゃないかな、目覚めは生き抜いてからでも遅くないんじゃないかな、見性は修行されてる方にお任せしてもいいんじゃないかな、
真摯な態度で覚醒見性された方の話を聞けば多分それでも失礼じゃないと思う、と。
情報過多になりつつある昨今、色んな方が色んな事を仰いますし、色んなメソッド、方法を指南掲示しますけど
どの方も一様に言うのは「固定概念を捨てなさい」。
ならば悟りを開くのを目指してしまわなくても良くないか?と、今のまま有りのままの自分でもいいという事だと。いやまず今の自分には無理だからですけどw

向上心がない怠け者気質ですけどwそれでも人生の糧になるお話があれば有り難く耳を傾けたいと思います。
そこから徐々にゆっくりでも煩悩と内なる光との軋みを無くしていけたらいいなと。
マイペースなんですよ。自分で自分を急かすのが大嫌いだから、そんな大嫌いな自分でいたくないw
大嫌いな自分は苦しいし辛いですよね。

ただ、私はこれで正しいのか解らない。やっぱり苦しみはあるし辛い時は根を上げる。
迷いも沢山、晴れない疑問も沢山、泣いてしまう事もある。でもこれも人生の醍醐味かもとも思うし、人間らしいと思う。
何かに取り憑かれたみたいに迷妄するのは怖いし、妄目的に突き進めない。
すごく凡夫。すごくダメダメな怠け者。すごくひねくれ者の天邪鬼。
でも…そんな自分でいたいと思ったりするんですねw

でも。こっさんはきっぱりあなたは悟ってる、皆悟ってるのだから、と言う。
ああそうか、悟りは平等なのかぁ、特別優劣ついてないのかぁ、と思いました。
じゃあやっぱりなにも四苦八苦して覚醒しなくていいね、って思うw
多分、正しくないけどもww
Posted by ミサイルミー at 2012年01月27日 02:52
初めてコメントさせて頂きます。

私は悟っています。でも、みなさんも悟ってます。

とても安心しました。

これでよかったんだって。

ありがとうございます。
Posted by 喜由 at 2012年01月27日 04:22
本当の自分を長い間求めてきました。この先は禅か瞑想しかないと知り禅に飛び込みました。禅のことは何もしらないまま。

見性と言われ何のことかも分かりませんでした。
ただ本当の自分に出会えた喜びでいっぱいでした。もうそれだけで充分な私でした。ところが悟後の修行がこれからはじまることを知りました。

やっと自由になった日々。

なにがなんだかわからない状態で公案と相撲をとっています。

阿部さんのブログに導いていただき、またこうして向井さんのブログに出会えましたことを感謝いたします。
Posted by めだか at 2012年01月27日 07:34
おはようございます。初めてのコメントです。

こちらのブログはいつも無断で拝見させていただいています。

今朝起きていつものように用便を済ませ洗顔歯磨きをしようとすると

何時もでてくるはずのお湯が出てきません。、、、おかしい、、、、おかしい、、

外気温が下がって湯沸かし器が作動していない様子です。

コックをひねると当たり前に出てくはずのお湯が出てきません。

仕方なく水で洗顔歯磨きをしましたがそのみずの冷たいこと冷たいこと指先が

真っ赤に炎上しておりました。まるで紅葉時のモミジのようです。

当たり前のことが当たり前にあるということはありがたいと思います。

空気も水も太陽もミンナタダで使わせていただいています。空気も水も太陽もあって当たり前にあります.それ以外にもたくさんあります。その当たり前に感謝しなくちゃいけないんじゃないかとおもいます。


自然は誰一人差別することなくみんな平等に与えられ動物植物鉱物も

何一つサがありません。そうだサをとればいいんですねそれが悟り、、

自然は悟っているんですかね。人種であるとか職種であるとか学歴とか、、

そんなものがないんですね。差がないんですね。上下の差がない、、、


自然に学べば間違いがないんだろうと思います。自然をお手本に生きていけばいいんだろうと思います。


今日はなぜかコメントをしてみたくなりました。初めての割には文章が長くまとまらないものになりました。お許しください。


本日は晴天なり、、、、

あーーーーー気持ちいいーーーーーー気持ちいいーーーーーー


失礼しました。
Posted by アンドロメ座星雲M31 at 2012年01月27日 08:28
ブログを読んで自分でなんとなく気付いたんですけど、

トンネルを抜けて視界が開けた時と同じというところ・・・。


足を痛めて、日常普通に歩けていたことが当たり前

手をケガして使えていたことが当たり前。

その当たり前と思っていたことに感謝する。

自分が出来ること、ほんの小さな気付きの積み重ね

に感謝するってことが、大きな気付きにつながって行くのかな?

とふと感じました。


有難うございます。
Posted by さり at 2012年01月27日 13:01
同じ大地をあるいているようなもの、という表現はすばらしいですね。
分からないながらも、そのとおりのような気がします。

また、とても正直に、ご自分のことをお話くださり、ありがとうございます。
分かりやすく説明してくださっているので、つい陥りやすい点に注意を向けることが出来ます。

いつもありがとうございます。
Posted by S at 2012年01月27日 17:48
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