いまここ禅道場

カテゴリー │仏教・禅思想

自己定義するかしないか、するとして何と定義するか、それこそ思うままで良いわけです。

人生、いろんな時があるから面白いので、私も、のほほ~んと過ごした時、どつぼにはまって息をしているだけという時、定義なんか考える余裕もなく目の前の仕事に必死の時と、いろんな時がありました。
今は本山を辞め、新たな出発という気持ちが強いので自己定義を明確にしょうという気持ちになりました。

「自分は何者であるか」という自己定義を明確にすることで、いまここの課題も明らかになるようです。
例えば、「生涯一雲水」ということを実践するには、朝だけでなく晩も坐禅をしょうということになります。

さて、「いまここ禅道場主」の定義ですが、
まず、「いまここ禅道場」って何処にあるの、と思いますよね。


ハイ、それは文字通り「いまここ」です。

つまり、いつでもどこでも私が居る所が禅道場という発想です。

つまり、この天地が道場であり、天地の生きとし生けるものすべてがサンガの仲間だということです。

「禅心とは宇宙を包含してなお余りあるもの」なんですから。

もちろん、「いまここ禅道場」の手本は専門道場にあります。
昨日お話した「三学」、特に何事も成りきる「禅定」を、いつでもどこでも実践することです。

もう一つ専門道場に学ぶべき大切なことがあります。
それは、食物、水、食器、人など、まわりのすべての物や命を我が命として尊び大切にする合掌礼拝の心で日常生活を貫くことです。

専門道場のような物理的に限定された場所だけを禅道場とするのではなく、天地を禅道場とし、天地の生きとし生けるものすべてを、合掌礼拝の心で共に大道を歩むべきサンガの仲間と受けとめることで、その時々の天命が明らかになり創造的な人生が展開するのです。

次回は、「いまここ禅道場主」の定義を実現するための課題を明らかにしようと思います。

アッ、ですから皆さんはもちろん「いまここ禅道場」の仲間なのですよ。 合掌(^_^)


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この記事へのコメント
仲間で嬉しいです!
この生活そのものが、いまここが禅道場なのかあ~(^-^)
Posted by ブルーエンジェル at 2011年12月07日 00:08
うれしいです

サンガです

だれもこぼさず、仲間なのですね

座禅、瞑想
始めてみたかったので

うれしいです
Posted by ともみ at 2011年12月07日 00:41
仲間と呼んでいただきありがとうございます
とってもうれしいです♪
Posted by しの at 2011年12月07日 00:55
…雲水って表現*
とても素敵ですね(^-^)

お天道(神仏)様によって
雲となり……*
巡り、輪廻し、
また雨粒となり
地上に降り立つ……*

私達も、
森羅万象なのだわ…*

こっさん、
ありがとうございます。

*合掌*
Posted by *おねむ* at 2011年12月07日 04:02
私は国外に住んでいますが、こっさんの最後の「皆さんはもちろん”いまここ禅道場”の仲間なのですよ」を読んで、なんとなく嬉しくなりました。
そうですよね。
「いまここ」は地上のどこにいても同じなんですよね。
当たり前のことに今更気付き、ちょっと嬉しいです。
合掌
Posted by 雅蔵 at 2011年12月07日 16:03
こんばんはm(_ _)m

私は、ありがたくも、生かされているなあと思います。

いまここ禅道場に在り、真心と笑顔で接待しよう、と思いました…

創造的な生き方ですね。
共に在ってくださり有り難うございますo(^-^)o
Posted by ひろ at 2011年12月07日 23:04
向井 様

今まで信行社の座禅道場での劣等生であった小生も昨日の座禅会でとうとう落第のレッテルを貼られてしまいました。
朝晩、2回 朝5時30分ー6時30分及び夜9時ー10時walking をしていますが、今朝のwalkingの最中昨日の事を反省しながら、ふと思ったことは、朝晩しているwalking を自称’Walking Zen' と名前をつけることです。
先日、浜松市のスポーツ振興課より電話があり12月9日にWalking Zen のことで取材の申し出があり了解しました。
もし取材があり、’Walking  Zen’のメリット又は良い点の質問には昨日の貴殿の言葉を勝手にパックッテ'そのような質問には答える必要は無い、ただwalking shoes をはいて毎日、5分でも10分でも歩きなさい’と答えるつもりです。
Going my way ,お互い 自分の信ずる道を歩みましょう。手段、方法は異なっても目指すところは同じだとおもいます。

大野木
Posted by 大野木 利久 at 2011年12月08日 13:14
大野木さんの’Walking Zen'、素敵ですね。

坐禅を組むばかりが禅ではなく、

歩く、歌う、料理するというような、いまここの事楽しんでやること、 ポジティブ・サマーディーが禅です。

どんな事でも、フォームと息のリズムとそれを楽しむ心とが一つになれば良いのだと思います。
Posted by こっさん(kossan)こっさん(kossan) at 2011年12月08日 18:36
「いまここ禅道場」という言葉で、維摩経の第4章、光厳童子が、維摩居士を見舞いに行きたくないという理由の箇所を思い出しました。令孝和尚もこの箇所イメージされたのでしょうか?

<ここから引用>
昔、光厳童子が、ヴァイシャーリーの大都市を出た時に、維摩はちょうどこの都市に入ろうとしていまいした。私は直ぐに彼に礼拝して言いました。「貴方はどこからいらっしゃったのですか」彼は私に答えて申しました。「私は道場(さとりの場所)から来たのです」私は問いました。「道場というのは何処のことですか」彼は答えました。
(以上のテキストは中村元、現代語訳、大乗仏典3「維摩経」「勝鬘経」東京書籍㈱刊より)
<さらに続けて、こちらは別の不明引用先から ちっと文体が漢文読み下し風ですが・・>

直心、 これ道場なり。虚仮無きがゆえに。
発心、 これ道場なり。能く事に務むるがゆえに。
深心、 これ道場なり。功徳を増大するがゆえに。
菩提心、これ道場なり。錯謬無きがゆえに。
布施、 これ道場なり。報いを望まざるがゆえに。
持戒、 これ道場なり。願の具足を得るゆえに。
忍辱、 これ道場なり。諸々の衆生に於いて心無碍なるがゆえに。
精進、 これ道場なり。懈怠せざるがゆえに。
禅定、 これ道場なり。心柔らかなるがゆえに。
智慧、 これ道場なり。目の当たりに諸法を見がゆえに。
慈、  これ道場なり。衆生を等しくみなすがゆえに。
悲、  これ道場なり。他のために疲苦を忍ぶゆえに。
喜、  これ道場なり。法を悦楽するがゆえに。
捨、  これ道場なり。愛憎を断ずるゆえに。
(この先まだ続くのですが・省略しています。)

小生この部分をプリントし、壁に貼って自省の言葉としています。
 
Posted by 徹岳善証 at 2011年12月09日 17:12
徹岳善証さま

維摩経のご紹介ありがとうございます。

私の場合、「深く禅定を修する」ことに尽きると思っています。


「いまここ禅道場」の名前は、2011年09月19日のブログで紹介したヘルガー拈華禅尼との出会いにあります。
Posted by こっさん(kossan)こっさん(kossan) at 2011年12月09日 18:24
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