大安心(だいあんじん)

カテゴリー │仏教・禅思想


「道心堅固(どうしんけんご)」ですぐに思ったのが、
アウシュビッツ強制収容所で他人のために死んでいったコルベ神父のことでした。

カトリックであろうと仏教であろうと、霊性の世界において大切なことは、
神・仏と呼ぶサムシング・グレートなる永遠の生命にいだかれてあることを確信し「大安心」に至ることです。

「大安心」ですから、どのような不条理な絶望的な状況にあっても揺るがないということであり、
それが「道心堅固」ということにもなると思います。

コルベ神父のような「大安心」に至り「道心堅固」に禅僧として生きている事実こそが、
この公案の回答だろうと思うわけです。つまり、私の一生涯のテーマです。


そこで今回は、コルベ神父の略歴をご紹介します。


コルベ神父は1894年にポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで生まれました。13歳のとき故郷の「フランシスコ会」の神学校に入り、ローマの大学に留学して7年間哲学と神学を学んだ後、25歳で司祭となって帰国しました。彼はローマで勉学中に「無原罪の聖母の騎士会」を創立していました。この会は、聖母マリアの保護の下に愛と祈りの業をもって人々の救霊に尽くすことを目的としています。
しだいに、彼の志に共鳴した修道志願者が集まり始め、雑誌の発行部数も伸びていき、ポーランド貴族ルベツキー公爵から寄付されたワルシャワ付近のテレシン村に修道院を新しく建設し、ポーランド語で「汚れなき聖母の場所」という意味のニエポカラヌフと命名しました。
1930年、36歳のときに長崎に来て、ここで、彼は日本語の『無原罪聖母の騎士』誌を発行しています。彼は6年間日本に滞在し宣教に専念した後、ニエポカラヌフに戻りました。

コルベ神父の最期
第二次世界大戦が始まり、1939年8月末ポーランドはドイツ軍に占領され、ニエポカラヌフの修道院も荒らされました。印刷機械は没収され神父や修道士は収容所に送られましたが、2ヵ月後釈放されました。
コルベ神父もニエポカラヌフに戻り、1年後に『無原罪の聖母の騎士』誌をまた発行しました。しかし、ナチスは、彼の説くカトリックの教えとナチスの思想は相反するとして、コルベ神父をブラックリストに載せていました。
1941年2月17日の朝、ゲシュタポがニエポカラヌフに来てコルベ神父をワルシャワの収容所に送ることにしました。
このとき、20人の修道士が彼の身代わりになることを願い出ましたが拒否され、ついに彼はアウシュビッツ強制収容所に送られました。
囚人番号16670。それが、コルベ神父につけられた番号でした。
1941年の夏、コルベ神父はアウシュビッツで強制労働に就かされていました。ある日、同じ班の囚人から脱走者が出ました。捜索しても脱走者は見つかりません。このまま見つからないと、連帯責任として、見せしめのために同じ班の中の10人が処刑されることになっていました。
翌朝、囚人は点呼を取り整列させられ、そのままの姿勢で待機させられました。姿勢を崩すと監視兵が容赦なく殴る。 罰として、炎天下で食物も水も与えられていません。疲労と乾きで倒れた囚人は、監視兵によりゴミ捨て場に投げ込まれてしまいました。午後3時ごろわずかの昼食と休憩が与えられましたが、再び直立不動の姿勢を強いられました。
その後、脱走者は見つからず、収容所所長は無差別に10人を選び餓死刑に処すと宣言しました。息詰る時間が流れ、10人が選ばれました。

その中に、突然妻子を思って泣き崩れた男がいました。囚人番号5659、ポーランド軍軍曹のフランシスコ・ガヨヴィニチェク。彼はナチスのポーランド占領に抵抗するゲリラ活動で逮捕されていました。
そのとき、囚人の中からひとりの男が所長の前に進み出ました。
所長は銃を突きつけ「何が欲しいんだ、このポーランド人め!」と怒鳴りました。
しかし、男は落ち着いた様子と威厳に満ちた穏やかな顔で「お願いしたいことがある」と言いました。
所長が「お前は何者だ」と問うと、その男は「カトリックの司祭です」と答えました。そして静かに続けたのです。「自分は、妻子あるこの人の身代わりになりたいのです」。
所長は驚きのあまり、すぐには言葉が出ませんでした。囚人が皆、過酷な状況の中で自分の命を守るのに精一杯なのに、他人の身代わりになりたいという囚人が現れたのです。
その場のすべての者は呆然となりました。しばらくして所長は「よろしい」と答え、コルベ神父を受刑者の列に加え、ガヨヴィニチェクを元の列に戻すと、黙り込んでしまいました。
受刑者名簿には、「16670」と書き入れられた。コルベ神父は他の9人と共に<死の地下室>と呼ばれる餓死監房に連れて行かれました。

のちに、このときの目撃者で収容所から生還した人々は、この自己犠牲に深い感動と尊敬の念を引き起こされたと語っています。餓死監房は生きて出ることのできない場所でした。パンも水もなく、飢えは渇きよりも苦しく、多くが狂死するのです。
そこからは絶えず叫びやうめき声が響いたといいます。

ところが、コルベ神父が監房に入れられたときは、中からロザリオの祈りや賛美歌が聞こえてきました。
他の部屋の囚人も一緒に祈り歌いました。彼は、苦しみの中で人々を励まし、仲間の臨終を見送りました。
そして<死の地下室>を聖堂に変えたのです。

2週間後には、彼を含めて4人が残りました。
当局は死を早める注射を打つことにしました。彼は注射のとき、自ら腕を差し出しました。このとき立ち会ったブルノ・ボルゴビエツ氏は、いたたまれず外に飛び出してしまいました。
彼は囚人でしたがドイツ語ができたので通訳をさせられており、後日、コルベ神父の最期について貴重な証言をしました。

8月14日、聖母被昇天祭の前日、コルベ神父は永遠の眠りにつきました。47歳でした。
亡くなったとき、彼の顔は輝いていたといいます。



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この記事へのコメント
こっさん、ありがとうございます。
いつも、とても楽しみです。

読んだあと、感動で呆然となりました。
何かこころのおくから、溢れてくるものがあり、まとまりません。

自分の奥底の何かをしっかり感じとつて今にいかします。
本当にありがとうございます!
Posted by あやこ at 2013年11月08日 22:17
ライフ イズ ビューティフルの映画を思い出しました
起こる事は起こる・・・その状況でいかに人のために生きられるか?
不満を言わず、人を批判せず、、、なかなかできないことですが、肝に銘じようと思いました♪
Posted by しの at 2013年11月09日 13:18
涙が出ました。
言葉がありません。
Posted by るみりん at 2013年11月09日 13:50
コルベ神父のお話は聞いたことがありましたが、改めてこちらで読ませて頂き、涙が零れました。
死よりも苦しい拷問の場所を聖堂にする。
見せかけの信仰では無理でしょう。
彼が本当に美しかったからこそ他の人々も祈りや賛美歌を口にした。
そして苦しい中でも救いがあったことでしょう。
この世も自分の内面も…自分の内面あればこそなのでしょう、心が麻痺していきそうな、少々ズルい計算をするのが当たり前になりそうな風景ばかり。
コルベ神父に心の汚れを涙で拭われました。
いっときのことで終わらず、抱えていたい(執着?)心の風景です。
ありがとうございます。
Posted by 蓮 at 2013年11月09日 20:44
コルベ神父さま。すごい方ですね。
アウシュビッツでの虐待は読んでいて怖いです。こっさんの淡々とした描写が怖かったから、余計にコルベ神父の覚悟のような道心堅固が伝わってきました。
こっさんにはコルベ神父の心が入っているんだなと思いました。
Posted by あみ at 2013年11月12日 02:48
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