2013年01月14日21:07
私が毎朝のお勤め(読経・回向)の時、自己流で実践していることというのは、
名づけて「縁起マンダラの観想」というものです。
大乗仏教の中心思想の一つは、
「空は即ち縁起なり」ということです。
ですから、禅定において「空」を体感することは、
自分が限りない「縁起」の関係性において生かされてある、
活き活きとした「有」の世界に踊りでることです。
つまり、禅は「無」の体得にとどまらず、「無有…」に生きるところに真骨頂があるのです。
言いかえると「真空妙有(しんくうみょうう)」に生きること。
「空」の意識にもとどまらず、その「空」も突きぬけた「真空」に至り、「妙有」のあるがままの現実世界に帰り、
それこそ「愛・感謝・慈しみ」の心をもっぱらにして生きることです。
すこし難しい思想的な説明になりましたが、具体的な体験としては実にシンプルなことで、
「自分は今日まで、実に多くの素晴らしい人に出会い、その恩愛に支えられ生かされて生きてきたのだなー!」という気づきです。
この気づきから生まれたのが「縁起マンダラの観想」です。
次回は、より具体的に紹介します。
縁起マンダラの観想≫
カテゴリー │仏教・禅思想
私が毎朝のお勤め(読経・回向)の時、自己流で実践していることというのは、
名づけて「縁起マンダラの観想」というものです。
大乗仏教の中心思想の一つは、
「空は即ち縁起なり」ということです。
ですから、禅定において「空」を体感することは、
自分が限りない「縁起」の関係性において生かされてある、
活き活きとした「有」の世界に踊りでることです。
つまり、禅は「無」の体得にとどまらず、「無有…」に生きるところに真骨頂があるのです。
言いかえると「真空妙有(しんくうみょうう)」に生きること。
「空」の意識にもとどまらず、その「空」も突きぬけた「真空」に至り、「妙有」のあるがままの現実世界に帰り、
それこそ「愛・感謝・慈しみ」の心をもっぱらにして生きることです。
すこし難しい思想的な説明になりましたが、具体的な体験としては実にシンプルなことで、
「自分は今日まで、実に多くの素晴らしい人に出会い、その恩愛に支えられ生かされて生きてきたのだなー!」という気づきです。
この気づきから生まれたのが「縁起マンダラの観想」です。
次回は、より具体的に紹介します。
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