ハダカが一番

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お早うございます。
今日も早朝から墓地の掃除でどっと汗をかいて、今一休みです。

そうですね、なにごとも「…ねばならない」というのは思いのとらわれですね。

いまここの自分とまわりの命を信頼し、リラックスして、楽しんで生きましょう。

坐禅・瞑想をしたり、「南無-」と真言を唱えたり読経したりすることで、日常生活全般が次第に、そのような生き方に方向づけされていきます。


私たちはみんな、『ダーマ温泉・いまここ大浴場』にもともとつかっているのです。
服を着たり、靴を履いたりしたままでは、ゆっくり温泉を楽しむことはできません。


ハダカ、ハダカ、何も身につけていないハダカが一番です。

そんな自由人を「無位の真人」、(A true man&woman without rank)というのです。



【コメントをいただいて】

○瞑想が危険なのは、気がのぼる時だろうと思います。意識を下腹の丹田におけば問題はないだろうし、
日常生活で、体を使って汗をかくようなことをして、寝る前は肉体的にも疲れていること、
普段、意識が大地から遊離しない生活を送ることが大切だと思います。

○雲水修行の時は残さず全部食べるのが決まりでした。
その延長で、和尚になってからも法事で出された料理はすべて食いあげる習慣がついてしまいましたが、健康に良くないので、この頃はもったいないけど、残すようにしています。

○臨済禅師に「途中にあって。家舎を離れず」と言う言葉があります。
途中だから変化していく、しかし同時に家舎、元の故郷をはなれない。

家舎は天地一杯の自分、宇宙と一つの自分、その自分は変わらない。
その宇宙と一つの自分が、春になれば花見をし、夏になれば涼風をもとめるというように変化する。

真理にはこの二面性があるということです。

「松に古今の色無く、竹に上下の節あり」と禅語にあるように、
古今の色に変わりなく平等であり永遠性がある、と同時に竹に節があるように区別があり変化がある。

私が永遠性と体感しているのは、時間空間の意識を超えている宇宙と一つの世界、
そこで生きそこで死ぬ「それでOK」、と受けとめられる安心の世界です。
あくまでも、言葉以前の実践による体感の世界です。

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この記事へのコメント
「思いのとらわれ」があるから、そうならないことに対して、怒りや苛立ちが生じてくるんでしょうね。

分かっていても、なかなか手放せないのが、もどかしいですが、せめて寝る前は、ゆっくり温泉に入るようにします。
Posted by eagle at 2011年07月03日 09:28
>私が永遠性と体感しているのは、時間空間の意識を超えている宇宙と一つの世界、
>そこで生きそこで死ぬ「それでOK」、と受けとめられる安心の世界です。

質問させていただきます。
「それでOK」という思いはその世界の中に置いてですか?
それとも、いつでもですか?
Posted by ぷ~すけ at 2011年07月03日 10:25
いまここ大浴場 いいですね!!!
なんか、ほっこり しちゃう。

ちなみに、今日の安部さんは パンツ2枚だそうです(^◇^)

こっさんと安部さんの間をとって、私は1枚に し~よう
Posted by みぃ at 2011年07月03日 13:04
毎日心に響くメッセージありがとうございます
(=⌒ー⌒=)

体感したことを言葉にするのは難しいですね。
でも、あの安心感がここにある…
そのことが、いつも私を満たしてくれます。
Posted by mina at 2011年07月03日 13:39
和尚様

お返事、頂きまして、大変、ありがとうございます。

丹田に意識を置くことは、しておりませんでした。今日は、日常でも、丹田に意識を置くように気をつけております。

「日常生活で、体を使って汗をかくようなことをして、寝る前は肉体的にも疲れていること」は、たまたま、歩くことで、実践しておりました。ただ、夜疲れていると、夜の瞑想ができない場合があります。ですが、歩くことは、精神の修行だと思っています。

毎日、自己流でも、瞑想を続けて、このブログを読めば、お寺にいるのと少しですが、近いですよね。

私も、言葉以前の実践の世界を進んで、行きたいです。
Posted by ぼんやり太郎は風に揺れる葦 at 2011年07月03日 15:17
こっさん。こんにちは!
ブログ再開嬉しいです。

心に響くこのブログを毎日楽しみに
しています。


阿部さんとのコラボ講演会もすごく
楽しかったです。あの日聞いた

「衆生本来仏なり」

のお話は衝撃的でした。以来とても
好きな言葉となりました。


『ダーマ温泉・いまここ大浴場』

いいですね。どうせなら温泉につかって
リラックスし、楽しんで生きたいですもんね♪
Posted by うもも at 2011年07月03日 16:41
向禅師のブログを読むと、なんでこんなにも気がぬけて気楽になるんだろぉ。
漢字も多いし、禅の言葉も日常使用しないからたまにちんぷんかんぷんなんだけど、でもでも、ほっこりするんです^^☆
きっと、向禅師のお人柄がブログににじみでてるんだろうなぁ。
Posted by ひとみ at 2011年07月03日 17:59
『ダーマ温泉・いまここ大浴場』(笑)
私は言葉を持ち歩いてしまって頭で考えてしまうので、イメージしやすいです(^0^)

疑問に応えてくださりありがとうございます。そうですよね、残さず出されたものを食べていたら、体に悪いです。
Posted by かおる at 2011年07月03日 19:45
はじめまして。

向和尚さんのブログは最近
老眼になって来た私には
字の大きさが非常に優しくて
有難いです。

四十過ぎて、精神的な内なる物、
お寺、神社に気持ちが向いて
います。

先日も方光寺に参拝させて
頂きました。


近い内に、お寺に参拝させて
頂きに行きます。
Posted by バリアフリー at 2011年07月03日 20:54
>私が永遠性と体感しているのは、時間空間の意識を超えている宇宙と一つの世界...

禅でもあるがままに見るということを言われてますが、時間空間の意識を超えている宇宙と一つという感性になるということでいいのでしょうか?

最近友人と山に行って、全てが呼吸している中にしばらくいると、自然の中に人間である私と友人も、その自然の中で解け合い一つになっていくようでした。
30分のすると両手がビリビリしだし、友人も同じような感覚になったと言ってました。
物事を判断しない、あるがままに見る...
美しいと思うことも一つの判断かもしれませんが、その時私は木々とやわらかい土と雑草の花と風も人間の私たちも全て美しいと感じました。
この感覚は判断だったんでしょうか?
Posted by 由未 at 2011年07月03日 22:51
>私が永遠性と体感しているのは、時間空間の意識を超えている宇宙と一つの世界、
>そこで生きそこで死ぬ「それでOK」、と受けとめられる安心の世界です。


ウパニシャッドの文献にも似たような言葉があるようです

「至福からこれらすべての生物が生まれ、至福の中で彼らが維持され、そして至福へと向かい、至福へと再びとけ込む」

みんな早く体験されるといいですね
Posted by 純 at 2011年07月03日 23:40
おはようございます。

「いまここの自分とまわりの命を信頼し、リラックスして、楽しんで生きましょう」・・・これを実践して、また氣づきをもらいに来ます。

おっしゃっていることが本当に理解できているかどうか、わからないですが、毎日心が洗われていくようです。

ありがとうございます。
Posted by Kimi at 2011年07月04日 11:06
こっさん、いつも素敵なブログを読まさせていただいております。

ありがとうございます。m(_)m

どうも気になってしまって質問なのですが私たちは生かされているという表現

の命と存在そのものとして命そのものとして生きているという命があるという

感じに使われる場合があるのですが、どうもしっくりこないというか、生かされ

ていると受身で感じるような気がするし生きているというと積極的な感じという

か何か、どうもなんといっていいのかよく分からないんですけど違いを教えて

いただけるとありがたいです?
Posted by まんま at 2011年07月04日 11:07
孝様、はじめまして。阿部さんのブログから来ました。

今日の記事に関係ない話で恐縮ですが、ご意見を伺いたくてコメントさせていただきます。大変現実的な話です。
(初対面もまだの僧侶の方に聞くのは失礼な内容かもしれませんし、デリケートな問題なので削除してくださっても結構です)

私は他家に嫁いだ一人っ子です。両親は高齢で借金を残してボケました。
親に貯金はなく、私の家庭も住宅ローンと大学生2人をかかえ毎月綱渡りのようなやりくりをしています。

こういう状況で親が亡くなったら、お布施はどうすればいいと思われますか? 「気持ちだけ」といっても相場というものがありますし・・・

また、両親に仏教徒だという言動が見られなかったことも気になってます。
私も親に仏教の話をしてもらったことは一度もありません。
住職さんも両親がどういう生活をしているのか全く知りません。
お寺さん(もしくは仏教)とは日常的な関わりがないのです。

どう見ても仏教徒じゃないのに、供養してもらったり、お墓を置いてもらったりすること自体、変だな~と思ってしまいます。

それでも、お墓を置かせてもらっているので、お寺の庭と建物の維持費・住職御家族の生活費を持つのは当然なのでしょうが、現実的に今の両親にも我が家にもその力がないので、いざとなったら借金をするか、ご先祖様のお骨ごと骨ホームレスになるのかなーなどと考えてしまいます。

ご住職にも生活がありますから、できることはさせていただきたいのですが、「できること」がとんでもなく少しの時にはどうしたら良いと思われますか? 日本の仏教全体の一般論としてはなく、孝様の個人的なご意見をお聞かせいただければ幸いです。
Posted by 浅利 at 2011年07月04日 14:04
向和尚様
お言葉ありがとうございました。

>家舎は天地一杯の自分、宇宙と一つの自分、その自分は変わらない。
わたくしは、家舎とは法(だるま)と考えておりました。
自分が主体で、宇宙と一つになるとは考えもつきませんでした。

>「松に古今の色無く、・・・」
>古今の色に変わりなく平等であり永遠性がある
松はいつも緑に見えますが、実は茶色の葉も併せ持つものです。
平等で永遠性の象徴とした禅語は間違いではないでしょうか?

>私が永遠性と体感しているのは、時間空間の意識を超えている宇宙と一つの世界
和尚の体験は素晴らしいものと思います。
宇宙と一つの世界が永遠であるとブッタは教えているのでしょうか。

わたくしの貧しい体験では、まだまだ分からないことだらけです。
Posted by シャリシ at 2011年07月04日 21:20
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