2014年12月11日17:11
宗教の本質である「安心」や「悟り・見性」は商売のように売り買いできません。
シャカムニ・ブッダが教えを広めた時、
あるいは、私自身が40数年前に見性した時、
指導する側のブッダや老師は、見返りを求めることのない「布施」の法を施すだけの無償の精神であったでしょう。
では指導される側の信者や弟子はどうかと言うと、
一応の道筋は教示されても、自分が自分で修行して自分自身において悟るしかありませんから、
本人の命がけの努力があってはじめて気づきが起こるわけです。
利得を求めず、真理に命を捧げるというぐらいの覚悟がなければ見性に至りませんから、
弟子の方も無我の無償の精神になっているでしょう。
ただし、「無償」の見返りを求めない「布施」の精神が基本にあっても、物やお金の動きがないわけではありません。
ギブ・アンド・ギブの「布施」の精神による仏教的経済行為が背景にあります。
たとえばお釈迦様に、
「どうかしばらく留まって法をお説きください」とスダッタという富豪とジェータ太子が寄進(財施)したのが、
お寺の起源とされる祇園精舎です。
お寺と土地を布施し寄進したのですから相当な額です。
お釈迦様も、物やお金の財施のサポートがあってこそ、祇園精舎で法を説く法施ができたわけです。
さて私の場合は、
当時は貧乏学生でしたから、8日間の大接心の食事代ほどを禅道場に布施したぐらいでしょう。
恥ずかしながら、
人生最高の価値と思っている「見性」まで導いていただいたことへのお礼の布施はお金ではほとんどしていません。
金額には換算できない価値ですから、全財産を老師に布施しても届かないわけです。
今も財産などない寺の住職ですが、大金でも入ったら、
長年坐らせてもらっている専門道場の整備に布施しょうと思っているところです。
無償の「布施」の精神がベースの宗教的行為であっても、
受け取る側が「無料」であるべきと思うのは、おかしな話です。
受け取る側も、祇園精舎のように、物やお金や労力でお返しするのが“Give and Give”の布施の精神です。
私自身は、今までずうっとこの「布施」の精神でやってきました。
法事やお葬式でいただく布施(財施)についても、金額の多寡にかかわらずありがたくいただくように心がけてきました。
これからも原則は、この精神で生きていくつもりです。
ただし,今回の「The禅プロジェクト」や「禅リトリート」や「いまここ道場」は、
「布施」の精神をベースにする仏教的経済行為ではなく、
サービスへの適正な対価を求める“Give and Take”の資本主義経済をベースにする行為だというのが私の認識です。
身体の病を治す「医療サービス」、
知識を伝える「教育サービス」と同じように、
宗教的な安心や悟りへの道筋を伝える「宗教的サービス」という認識です。
英語の通信講座の「教育サービス」に申し込んでも、英語をマスターし体得できるかどうかは本人の努力次第です。
The禅アカデミーで出来ることも道筋を伝えエールを贈ることだけで、マスターし体得するのは本人の努力次第です。
今回のThe禅プロジェクトは、
資本主義経済の手法とネットのおかげで、多くの人に禅について知っていただくことができました。
しかし「見性」となると、かっての私のように命がけで専門道場に身を投ずるのが最短距離でしょう。
禅の真理(法)を富士山にたとえるなら、
専門道場における師匠と弟子の無償の宗教的交流は八合目から頂上あたり。
The禅プロジェクトは裾野から五合目あたり。
豊かな裾野の一般大衆への広がりがあってこそ、法は実現されるだろうというのが私のビジョンです。
私のビジョンが妄想に終わるかどうかは、歴史の経過をまたねば分かりません。
布施の精神≫
カテゴリー │仏教・禅思想
宗教の本質である「安心」や「悟り・見性」は商売のように売り買いできません。
シャカムニ・ブッダが教えを広めた時、
あるいは、私自身が40数年前に見性した時、
指導する側のブッダや老師は、見返りを求めることのない「布施」の法を施すだけの無償の精神であったでしょう。
では指導される側の信者や弟子はどうかと言うと、
一応の道筋は教示されても、自分が自分で修行して自分自身において悟るしかありませんから、
本人の命がけの努力があってはじめて気づきが起こるわけです。
利得を求めず、真理に命を捧げるというぐらいの覚悟がなければ見性に至りませんから、
弟子の方も無我の無償の精神になっているでしょう。
ただし、「無償」の見返りを求めない「布施」の精神が基本にあっても、物やお金の動きがないわけではありません。
ギブ・アンド・ギブの「布施」の精神による仏教的経済行為が背景にあります。
たとえばお釈迦様に、
「どうかしばらく留まって法をお説きください」とスダッタという富豪とジェータ太子が寄進(財施)したのが、
お寺の起源とされる祇園精舎です。
お寺と土地を布施し寄進したのですから相当な額です。
お釈迦様も、物やお金の財施のサポートがあってこそ、祇園精舎で法を説く法施ができたわけです。
さて私の場合は、
当時は貧乏学生でしたから、8日間の大接心の食事代ほどを禅道場に布施したぐらいでしょう。
恥ずかしながら、
人生最高の価値と思っている「見性」まで導いていただいたことへのお礼の布施はお金ではほとんどしていません。
金額には換算できない価値ですから、全財産を老師に布施しても届かないわけです。
今も財産などない寺の住職ですが、大金でも入ったら、
長年坐らせてもらっている専門道場の整備に布施しょうと思っているところです。
無償の「布施」の精神がベースの宗教的行為であっても、
受け取る側が「無料」であるべきと思うのは、おかしな話です。
受け取る側も、祇園精舎のように、物やお金や労力でお返しするのが“Give and Give”の布施の精神です。
私自身は、今までずうっとこの「布施」の精神でやってきました。
法事やお葬式でいただく布施(財施)についても、金額の多寡にかかわらずありがたくいただくように心がけてきました。
これからも原則は、この精神で生きていくつもりです。
ただし,今回の「The禅プロジェクト」や「禅リトリート」や「いまここ道場」は、
「布施」の精神をベースにする仏教的経済行為ではなく、
サービスへの適正な対価を求める“Give and Take”の資本主義経済をベースにする行為だというのが私の認識です。
身体の病を治す「医療サービス」、
知識を伝える「教育サービス」と同じように、
宗教的な安心や悟りへの道筋を伝える「宗教的サービス」という認識です。
英語の通信講座の「教育サービス」に申し込んでも、英語をマスターし体得できるかどうかは本人の努力次第です。
The禅アカデミーで出来ることも道筋を伝えエールを贈ることだけで、マスターし体得するのは本人の努力次第です。
今回のThe禅プロジェクトは、
資本主義経済の手法とネットのおかげで、多くの人に禅について知っていただくことができました。
しかし「見性」となると、かっての私のように命がけで専門道場に身を投ずるのが最短距離でしょう。
禅の真理(法)を富士山にたとえるなら、
専門道場における師匠と弟子の無償の宗教的交流は八合目から頂上あたり。
The禅プロジェクトは裾野から五合目あたり。
豊かな裾野の一般大衆への広がりがあってこそ、法は実現されるだろうというのが私のビジョンです。
私のビジョンが妄想に終わるかどうかは、歴史の経過をまたねば分かりません。
この記事へのコメント
生意気を言いますが、会社に通い、日々を生きて行く事は、私にとっては泥にまみれて生きる事の様な息苦しさを感じ、現状の生活を送る意味に嫌気がさしてくる事がありますが、阿部さんや向和尚の法話を聴いて、泥を落として…また生活に戻るという感じでいました。
心に救いを求める人にとっては
とってもいい企画でした。
心に救いを求める人にとっては
とってもいい企画でした。
Posted by Joy at 2014年12月11日 23:55
初めてのコメントです。菩提心と仏性とは
私も仏様のようになりたい・・・ みんながブッダですよ。
お教えください。
私も仏様のようになりたい・・・ みんながブッダですよ。
お教えください。
Posted by 西 at 2014年12月12日 13:51
こっさんへ
なぜだか急に泣けちゃいました。
東京の一隅から応援しています・・・☆
なぜだか急に泣けちゃいました。
東京の一隅から応援しています・・・☆
Posted by miya at 2014年12月13日 13:19
わたしは悟りをひらいたといっているのは誰でしょう。
私の全体意識をみて、安住しましたか。
お二人とも抜け出せますかね。
見性ねぇ?
私の全体意識をみて、安住しましたか。
お二人とも抜け出せますかね。
見性ねぇ?
Posted by 未流 at 2014年12月14日 19:53
見性覚悟のない真理探究ものにとっても
価値を見いだせる対価は
八合目から頂上です。
こっさま、阿部さんの思いは
いつも はーとに響きます。
分かち合えることは豊かだと感じます。
The禅プロジェクト 楽しみです。
よろしくお願いします(*^^*)
価値を見いだせる対価は
八合目から頂上です。
こっさま、阿部さんの思いは
いつも はーとに響きます。
分かち合えることは豊かだと感じます。
The禅プロジェクト 楽しみです。
よろしくお願いします(*^^*)
Posted by kayoko at 2014年12月15日 05:32
お布施として、一口幾らという形にしても面白いと思いましたが、
こっさんの認識とは違うのでしょうか。
こっさんの認識とは違うのでしょうか。
Posted by 供鎮 at 2014年12月15日 21:15
はじめまして、木中と申します。
向老師は、阿部敏郎氏、大和田菜穂氏ともご交流があると聞いております。
このたび、
http://ameblo.jp/nomeditationnolife/entry-12041810813.html
http://ameblo.jp/nomeditationnolife/entry-12034582056.html
http://ameblo.jp/nomeditationnolife/entry-12039556226.html
というブログ記事を目にいたしました。
祥光寺、及び臨済宗としては、一体どのようなお立場なのでしょうか。
差し支えなければ、ご意見を伺わせていただければ幸いです。
用件のみで失礼いたします。
向老師は、阿部敏郎氏、大和田菜穂氏ともご交流があると聞いております。
このたび、
http://ameblo.jp/nomeditationnolife/entry-12041810813.html
http://ameblo.jp/nomeditationnolife/entry-12034582056.html
http://ameblo.jp/nomeditationnolife/entry-12039556226.html
というブログ記事を目にいたしました。
祥光寺、及び臨済宗としては、一体どのようなお立場なのでしょうか。
差し支えなければ、ご意見を伺わせていただければ幸いです。
用件のみで失礼いたします。
Posted by 木中 at 2015年06月22日 18:08
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