2011年10月17日23:47

「あるがままを受け容れ、思うままに生きる」⑤
写真は、題して「海辺のオブジェ」です。
大きな木の根っこでしょう!
今日は、天竜川河口の太平洋岸自転車道をサイクリングしました。
思った通り、この間の台風で、流木が帯のようにして海岸に打ち寄せられていました。
花台になりそうな木の根っこがあったので、背中のリュックにくくり付けて持って帰りました。
うまく作品ができたら、またブログで一般公開します(^▽^)
さて、「あるがままを受け容れ、思うままに生きる」のシリーズ5回目です。
今回は「空」が分からないということをお聞きしましたので、
「空」とも表現される「あるがままの地平」についてお話しましょう。
「あるがままの地平」に至るには、思考をストップし想念から抜け出すことです。
その心の状態を無我・無心と言います。
思考をストップすることで、思いのとらわれから解放され自我(エゴ)にとらわれない無我の自己に帰ることができます。
自己が徹底して無我になった時に開けてくる世界が、
私たちが、もともと於いてあり、生かされてある場、
即ち「あるがままの地平」です。
その「あるがままの地平」に於いては、自我の自己中心性を離れ、まわりすべての存在が、自分の命のように体感できる、活きいきした豊かな真実の世界が開けてきます。
方広寺派管長・大井際断老師は、このあるがままの真実の世界を、
「天地一杯の宇宙の大生命」とか、
「天地一杯の無」とか表現されています。
あるいは、この真実の世界を「空」とも表現します。
「空」は宇宙の大生命そのものですから、もちろん「むなしい」とか「からっぽ」ということではありません。
「縁起それは空である」と龍樹(ナーガルジュナ)が言うように、
この宇宙のすべての存在が、相互の関係性(縁起)によって成り立っていて、それそのものだけで存在することのない世界であるということです。これを「空」というのです。
この真実の世界が、空気のようにあれどもつかみどころの無い、実体性の無いことを表現するのに「空」というのです。
ダライラマも、
「真実とは空である。空とは、満たされていることを意味し、自然の法則の一切が、空の中に含まれる。それそのものだけで、独自に存在しうるようなものは存在しないからだ」と言っています。
ですから、「空」の真実の体感は、「むなしい」どころか、「満たされ」た、充実しきった広大な宇宙生命の体感なのです。
真実は一つですが、人間の側の切り口、観点の違いで、このように違う表現になってしまいます。
そして、真実そのものは、言葉で伝えることも、言葉によって知ることも出来ません。
アメリカの首都がワシントンであることや、ワシントンの世界地図上の位置は、多くの人が知っています。
でも、リアルなワシントンの町を本当に知っている人は少ないでしょう。
つまり、言葉による知識、あるいは言葉による思考で知る次元と、実際に体験し、体感する、実践(行)により知ることとは、全く次元が違うということです。
先ず真実の体験があり、その体験を「空」とか「宇宙の大生命」とか表現しているのであって、「空」とか「宇宙の大生命」という言葉をいくら聴いたり考えたりしても真実の体験には至らないのです。
「禅は語るべからず行ずべし」と言います。
言葉や思考の次元から、行の実践の次元で知ることへ生き方を転換することが大切です。
日常生活で、坐禅とともに、何事も成りきって無我・無心でやる実践を続けることが、真実の世界への一番の近道だと思います。
「空」について≫
カテゴリー │仏教・禅思想

「あるがままを受け容れ、思うままに生きる」⑤
写真は、題して「海辺のオブジェ」です。
大きな木の根っこでしょう!
今日は、天竜川河口の太平洋岸自転車道をサイクリングしました。
思った通り、この間の台風で、流木が帯のようにして海岸に打ち寄せられていました。
花台になりそうな木の根っこがあったので、背中のリュックにくくり付けて持って帰りました。
うまく作品ができたら、またブログで一般公開します(^▽^)
さて、「あるがままを受け容れ、思うままに生きる」のシリーズ5回目です。
今回は「空」が分からないということをお聞きしましたので、
「空」とも表現される「あるがままの地平」についてお話しましょう。
「あるがままの地平」に至るには、思考をストップし想念から抜け出すことです。
その心の状態を無我・無心と言います。
思考をストップすることで、思いのとらわれから解放され自我(エゴ)にとらわれない無我の自己に帰ることができます。
自己が徹底して無我になった時に開けてくる世界が、
私たちが、もともと於いてあり、生かされてある場、
即ち「あるがままの地平」です。
その「あるがままの地平」に於いては、自我の自己中心性を離れ、まわりすべての存在が、自分の命のように体感できる、活きいきした豊かな真実の世界が開けてきます。
方広寺派管長・大井際断老師は、このあるがままの真実の世界を、
「天地一杯の宇宙の大生命」とか、
「天地一杯の無」とか表現されています。
あるいは、この真実の世界を「空」とも表現します。
「空」は宇宙の大生命そのものですから、もちろん「むなしい」とか「からっぽ」ということではありません。
「縁起それは空である」と龍樹(ナーガルジュナ)が言うように、
この宇宙のすべての存在が、相互の関係性(縁起)によって成り立っていて、それそのものだけで存在することのない世界であるということです。これを「空」というのです。
この真実の世界が、空気のようにあれどもつかみどころの無い、実体性の無いことを表現するのに「空」というのです。
ダライラマも、
「真実とは空である。空とは、満たされていることを意味し、自然の法則の一切が、空の中に含まれる。それそのものだけで、独自に存在しうるようなものは存在しないからだ」と言っています。
ですから、「空」の真実の体感は、「むなしい」どころか、「満たされ」た、充実しきった広大な宇宙生命の体感なのです。
真実は一つですが、人間の側の切り口、観点の違いで、このように違う表現になってしまいます。
そして、真実そのものは、言葉で伝えることも、言葉によって知ることも出来ません。
アメリカの首都がワシントンであることや、ワシントンの世界地図上の位置は、多くの人が知っています。
でも、リアルなワシントンの町を本当に知っている人は少ないでしょう。
つまり、言葉による知識、あるいは言葉による思考で知る次元と、実際に体験し、体感する、実践(行)により知ることとは、全く次元が違うということです。
先ず真実の体験があり、その体験を「空」とか「宇宙の大生命」とか表現しているのであって、「空」とか「宇宙の大生命」という言葉をいくら聴いたり考えたりしても真実の体験には至らないのです。
「禅は語るべからず行ずべし」と言います。
言葉や思考の次元から、行の実践の次元で知ることへ生き方を転換することが大切です。
日常生活で、坐禅とともに、何事も成りきって無我・無心でやる実践を続けることが、真実の世界への一番の近道だと思います。
この記事へのコメント
おっさま、おはようございます。
海岸の海のオブジェ素敵ですね!
自然ってなんて遊び心いっぱいですね。
自分が知らないことは無いことと一緒。
知ってしまうから悩みが生まれることもたくさんありますよね。
真っ白な心で産まれ、知恵がついて人間悩みを作っていくんですね。
「空」になるべく瞑想の時間、これから多く持ちたいと思いました。
その宇宙観体現してみたいです。
海岸の海のオブジェ素敵ですね!
自然ってなんて遊び心いっぱいですね。
自分が知らないことは無いことと一緒。
知ってしまうから悩みが生まれることもたくさんありますよね。
真っ白な心で産まれ、知恵がついて人間悩みを作っていくんですね。
「空」になるべく瞑想の時間、これから多く持ちたいと思いました。
その宇宙観体現してみたいです。
Posted by さり at 2011年10月18日 11:38
向禅師は「空」にいたる道として「坐禅」を奨励なさっていることと思いますが、「フルフィルメント瞑想」についてどのような見解をお持ちでしょうか?
阿部敏郎氏は「空」にいたる最も効果的な道として「フルフィルメント瞑想」の伝授を行われていますが、同志として同じ見解をお持ちでしょうか?
阿部敏郎氏は「空」にいたる最も効果的な道として「フルフィルメント瞑想」の伝授を行われていますが、同志として同じ見解をお持ちでしょうか?
Posted by ラーマクリシュナ at 2011年10月18日 11:43
こんにちは!
先日、信行社の月例会に初めて参加させて頂き、とても有意義な時間を過ごす事ができました。有難う御座いました。また伺いたいと思っております。
その時に、空 とはなんぞや!!!と、とても深く考えている方がいらっしゃいましたね!
私は、<空 とは 空かぁ> 空だよね!
と、そこでいつも思考をストップしています。
たぶん追求するのが怖いのと面倒(ごめんなさい)なんだと思います。
私は、こっさんのお話(ブログ)がとても好きですし楽しみにしています!!
時々、チョット難しいなぁ~(私には・・・) と思う時がありますが、でも、でも、付いていきます(笑)
これからも宜しくお願い致します。
先日、信行社の月例会に初めて参加させて頂き、とても有意義な時間を過ごす事ができました。有難う御座いました。また伺いたいと思っております。
その時に、空 とはなんぞや!!!と、とても深く考えている方がいらっしゃいましたね!
私は、<空 とは 空かぁ> 空だよね!
と、そこでいつも思考をストップしています。
たぶん追求するのが怖いのと面倒(ごめんなさい)なんだと思います。
私は、こっさんのお話(ブログ)がとても好きですし楽しみにしています!!
時々、チョット難しいなぁ~(私には・・・) と思う時がありますが、でも、でも、付いていきます(笑)
これからも宜しくお願い致します。
Posted by 倫子 at 2011年10月18日 17:43
ラーマクリシュナさんへ
富士山の頂上に登るのに、いくつかの登山道があるように、「空」を体得するのにも道はいくつかあると思います。
私は20歳で禅に出合い禅の教えに惹かれ、わずか1年ほどの坐禅修行で幸い無我の本当の自分を体得し、その後も40年間禅の修行を続けてきたわけで、私には禅を勧めることしかできないわけです。
フルフィルメント瞑想については、「ハートマントラ」を私も体験してみました。
私の感想は、真言密教的なアプローチかなということです。
禅は、真っ正面から自我の否定、身心を投げだし脱落する道で、とことん坐りぬく覚悟と意志力が求められます。
その点、「ハートマントラ」は、誰でも入りやすい易しい道だと思います。
「禅は、禅の極意は禅を忘れることにある」ということで、禅も悟りも空も忘れた、
平凡なあたりまへの人間に至るというところまでの修行体系が確立されているところが、素晴らしいところだろうと思います。
富士山の頂上に登るのに、いくつかの登山道があるように、「空」を体得するのにも道はいくつかあると思います。
私は20歳で禅に出合い禅の教えに惹かれ、わずか1年ほどの坐禅修行で幸い無我の本当の自分を体得し、その後も40年間禅の修行を続けてきたわけで、私には禅を勧めることしかできないわけです。
フルフィルメント瞑想については、「ハートマントラ」を私も体験してみました。
私の感想は、真言密教的なアプローチかなということです。
禅は、真っ正面から自我の否定、身心を投げだし脱落する道で、とことん坐りぬく覚悟と意志力が求められます。
その点、「ハートマントラ」は、誰でも入りやすい易しい道だと思います。
「禅は、禅の極意は禅を忘れることにある」ということで、禅も悟りも空も忘れた、
平凡なあたりまへの人間に至るというところまでの修行体系が確立されているところが、素晴らしいところだろうと思います。
Posted by こっさん(kossan)
at 2011年10月18日 22:47

こっさま、おはようございます。
今日も爽やかな秋の一日になりそうですね。
「平凡なあたりまへの人間に至るというところまでの修行」
ありがとうございます。日常生活を生ききりたく、本日も家事に励みます。
昨日、本屋で 山川さんの唯識の本を買っちゃいました(笑)
楽しく勉学にも励みたいと思います。。 食欲の秋、勉学の秋かな(笑)
今日も爽やかな秋の一日になりそうですね。
「平凡なあたりまへの人間に至るというところまでの修行」
ありがとうございます。日常生活を生ききりたく、本日も家事に励みます。
昨日、本屋で 山川さんの唯識の本を買っちゃいました(笑)
楽しく勉学にも励みたいと思います。。 食欲の秋、勉学の秋かな(笑)
Posted by ブルーエンジェル at 2011年10月19日 09:00
おっさま、こんばんは^^
天竜川河口の太平洋岸自転車道って。。
近所じゃあないですか~
おっさまが、こんなに近くにいらっしゃるなんて、
今のいままで全く気がつきませんでしたよ^^*
なんだかうれしいです♪
私はよく遠州浜の海を見に行きます^^v
天竜川河口の太平洋岸自転車道って。。
近所じゃあないですか~
おっさまが、こんなに近くにいらっしゃるなんて、
今のいままで全く気がつきませんでしたよ^^*
なんだかうれしいです♪
私はよく遠州浜の海を見に行きます^^v
Posted by EMY☆ at 2011年10月19日 21:15
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