瞑想と坐禅

カテゴリー │仏教・禅思想

「瞑想と坐禅はどう違うのですか?」と、
接心で対話の時などによく質問されます。

結論から言えば、
違うとも言えるし、同じとも言えます。


坐禅にしろ瞑想にしろ、
着地点は「いまここ」に静かにほっこりと落ちついて、
あるがままの自然体であることですから同じです。
つまりは、そんなに特別なことではないのです。

坐るにしろ、歩くにしろ、お茶を飲むにしろ、
ただ坐り、ただ歩き、ただ茶を飲む。
そこに思考が介在することなく無心であれば、その在りようは瞑想であり坐禅と同じ境地でもあるのです。


「一口に吸盡す西江の水…」という禅語があります。
大河の水を一口で飲み干してみよということで禅の公案にもなっています。

答えは至ってシンプル。
お茶碗を恭しく両手で捧げもち一口でいただくだけです。
天地いっぱいの開放された境地で、「いまここ」のお茶を飲み味わい「結構なお点前で!」と言えば、
その行為は瞑想であり坐禅と同じ境地でもあるわけです。


瞑想(狭義)が坐禅と違うとすればどういう次元かと言えば、

目を閉じて「オーム」というようにマントラを唱える時。
あるいは、真言密教などで身・口・意の三蜜加持の行で、
身は坐禅をしながら手で印を結び、
口で真言(マントラ)を唱え、
意(心)を大日如来やマンダラに向けて観想し、
三昧になる時です。

この場合、意識は少しあるがままの現実から遊離しています。
マントラを唱えつづけてマントラに成りきり、
マントラの波動が全身を満たし、
宇宙の波動と同調し、
その宇宙の波動に溶けこみひとつになり、
心が浄化されて浄福を味わう。

とても素晴らしいことですが、
この次元では意識は「いまここ」から少し遊離しています。


禅の修行では、この境地をも突きぬけよと言います。
正統なマントラ(真言)瞑想の修行でも同じだろうと思いますが、
「悟り」、「空」、「マントラ」、「観想される仏や象徴」
これらの意識をすべて突きぬけて、
ただ「いまここ」に平常心で在れというわけです。

狭義の瞑想がこれらの意識に留まっているとすれば、
坐禅との違いはここにあります。

日本において、禅は武士階級に大いに浸透しました。
戦いの最中において、平常心の禅的境地は大切ですが、
狭義の瞑想に留まっていては危険です。
しかし戦いが一段落すれば、
武士たちは大いに酒を飲み交わし殺伐とした戦場から意識を遊離・開放して疲れを癒やし、明日の英気を養ったことでしょう。

ですから、狭義の瞑想を酒やワインの味とすれば、
禅は清水の味と言えるでしょう。

素面(しらふ)でないとあるがままの現実社会を生きるのに困ります。
でもいつも水ばっかり飲んでいては、人生は味も素っ気もありません。
時には酒やワインを飲んで豊かな気持ちになることも大切です。


私の場合も、
マントラ(真言)瞑想や三蜜加持のアプローチと坐禅とを、双修しています。



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この記事へのコメント
こっさま、素晴らしい説明、ありがとうございます。
阿部敏郎さんも以前同じような説明をして下さいました。
いま注目されている、フランク・キンズロー博士の『QE』の内容も関連して楽しいですね。
よかったら、皆様、一度検索をどうぞ。合掌感謝
Posted by 菅沼龍朗 at 2014年02月16日 19:25
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