白隠禅師の書画②

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 暫時不在如同死人


「暫時(ざんじ)も在らざれば、死人に如同(にょどう)す」



今回も白隠禅師の書です。

「一瞬たりとも、わが主人公たる本心がお留守になるなら、死人も同じことだ」という意味です。


参禅の時老師に、「自我を滅却しつくせ!」という意味で、

「死にきって来い!」と言われます。

ですから、禅では「死」は消極的な意味ばかりではありません。


この間の祥光寺禅会で、この場合の「死」をどう解釈するかが話題になりました。


アウラさんが、白隠展を主催された花園大学国際禅学研究所の吉澤勝弘教授に直接質問したところ、
裏付けとなる資料とともに、上記のような解釈の丁寧な回答をいただきました。


「空」、「天地いっぱいの無」の境地にあって、

本心(仏心・正念)を忘れず、

何事にも動揺することのない、

肚の据わった主人公となって生きよ、

さもなければ生ける屍の死人と同然だぞ、ということです。


どんな境遇にあっても、
自分が主人公となって生きている人は輝いているし、
まわりの人に生きる力を与えてくれます.
そのような人は、良い・悪い、幸・不幸、成功・失敗等の
世間的な相対の価値観を突きぬけた、
「至善」の永遠の光のうちに在るからです。

末期ガンで数ヶ月後に死が予想された最後の参禅の時の、
ヘルガー(拈華禅尼)さんも、そんな光のうちに輝いていました。

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この記事へのコメント
はい‼
Posted by さらさら at 2013年03月04日 15:59
力強い白隠禅師の書画、意味は掴みきれなくとも何だか勇気を頂ける様な気がします。

頭で分かろうとしてしまっているのか、昨日と今日の講義(記事)はまだ入ってきていないようです。
時を変え、何度も読み返し、心で理解してみようと思います。

いつもありがとうございます。
Posted by 雅蔵 at 2013年03月04日 16:08
私も、「死」についての解釈を自分なりにしてみましたが、吉澤教授に直接たずねてみてよかったです。教授は、白隠禅師の著作のすべてを読んたうえでの答えを教えてくれました。「小死」と、「大死」。
 禅の教えは厳しいものだと、身がひきしまりました。ご紹介してくださり、ありがとうございます。
Posted by アウラ at 2013年03月04日 17:53
kossanこんばんわ!

暫時不在如同死人
    ↑
直球ですね
正直しびれます

小学校くらいの時に、こういうの教わりたかったなあって、思います
まあ今教わったからいいかww

今日もありがとうございました♥
Posted by 2b8kxv at 2013年03月04日 21:47
向さんに質問です。2月から座禅の会に入り座禅を始めました。まだまだ、雑念におそわれ数息感もうまく行きません。老師に瞑想と座禅は同じだと教わりましたが、阿部さんは瞑想は行為ではなく状態だと言っておられます。座禅はどのように捉えたら良いのでしょうか?
Posted by フミ at 2013年03月05日 18:01
暫時不在如同死人「暫時(ざんじ)も在らざれば、死人に如同(にょどう)す」確かに読み下しはそうでしょう。私は公案と受け取って、ザンジフザイ!ニョドウシニン!死んで死んで死んで死に切って!「生きながら死人と成りて成り果てて思いのままにするわざぞよき」(至道無難禅師)「御坊!今日は坐禅と奇特じゃのう!おうよ!」(白隠坐禅画賛)。滅尽定。有難うございました。
Posted by 麻縄和蘭治 at 2015年07月10日 14:54
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    コメント(6)