2011年08月15日14:09
死について③ー父のプレゼント≫
カテゴリー │仏教・禅思想
今ちょうどお盆の最中で、わが家でも関西風に、13日に迎え火を焚きました。
引き続き父のことをお話しするのも、ごく自然な成りゆきのようです。
父が突然に亡くなっても、二度と生きて帰ってこないということが、私にはなかなか納得出来ませんでした。
ようやく、「お父さんは、もう帰ってこないんだ」と腑に落ちてからは、本当に悲しくて、その後長いこと、心のなかにポッカリ空洞が出来たような淋しさを感じていました。
父の存在そのものが、家族にとって大きな愛であったのだと、はじめて気づきました。
父は、「ムウー!ムウー!」と断末魔の呻き声をあげて亡くなりました。
私が、禅によって自我の意識を破り、あるがままの悟りの地平に帰ることが出来たのも、
この「「ムウー!」という『趙州無字』の公案であったことは不思議なことです。
私が最初に老師からいただいた『趙州無字』の公案とは、
趙州禅師に弟子が「子犬に仏性はありますか?」と尋ねて、趙州が「無」と答えたという有名な公案です。趙州は、別な場面では「有」と答えているようですから、趙州の「無」は、有無の分別を超えた所にあるわけです。
老師から、初関に「無」の公案をいただき、「無に成りきってこい!」と叱咤激励され、
歩いても「ムー」、掃除しても「ムー」、四六時中「ムー」と、私は、まるでマントラのように無三昧に成りきって、ついに見性することが出来ました。
私は、無三昧において、今も父の最期の命を継承しているのだと感じています。
引き続き父のことをお話しするのも、ごく自然な成りゆきのようです。
父が突然に亡くなっても、二度と生きて帰ってこないということが、私にはなかなか納得出来ませんでした。
ようやく、「お父さんは、もう帰ってこないんだ」と腑に落ちてからは、本当に悲しくて、その後長いこと、心のなかにポッカリ空洞が出来たような淋しさを感じていました。
父の存在そのものが、家族にとって大きな愛であったのだと、はじめて気づきました。
父は、「ムウー!ムウー!」と断末魔の呻き声をあげて亡くなりました。
私が、禅によって自我の意識を破り、あるがままの悟りの地平に帰ることが出来たのも、
この「「ムウー!」という『趙州無字』の公案であったことは不思議なことです。
私が最初に老師からいただいた『趙州無字』の公案とは、
趙州禅師に弟子が「子犬に仏性はありますか?」と尋ねて、趙州が「無」と答えたという有名な公案です。趙州は、別な場面では「有」と答えているようですから、趙州の「無」は、有無の分別を超えた所にあるわけです。
老師から、初関に「無」の公案をいただき、「無に成りきってこい!」と叱咤激励され、
歩いても「ムー」、掃除しても「ムー」、四六時中「ムー」と、私は、まるでマントラのように無三昧に成りきって、ついに見性することが出来ました。
私は、無三昧において、今も父の最期の命を継承しているのだと感じています。
この記事へのコメント
初めてコメントさせていただきます。
数週間前、阿部さんのブログを通してきました。
日本は今お盆の最中。
私はヨーロッパに住んでいるのですが、どこにいてもご先祖様と繋がっているだろうと思い、会ったことのない両祖父、他界している両祖母、その前のご先祖様たちに、私が今ここにあることを感謝しました。
日本にいたときもきちんとしたお盆を経験したことがありませんが、これでいいんですよね?
人生色々ありますが、学びの過程を迷いながらも楽しんでいます。
これからも、頑張らずに気の向くまま、素晴しい記事を載せてくださいね。
遠くから応援しています。
数週間前、阿部さんのブログを通してきました。
日本は今お盆の最中。
私はヨーロッパに住んでいるのですが、どこにいてもご先祖様と繋がっているだろうと思い、会ったことのない両祖父、他界している両祖母、その前のご先祖様たちに、私が今ここにあることを感謝しました。
日本にいたときもきちんとしたお盆を経験したことがありませんが、これでいいんですよね?
人生色々ありますが、学びの過程を迷いながらも楽しんでいます。
これからも、頑張らずに気の向くまま、素晴しい記事を載せてくださいね。
遠くから応援しています。
Posted by 雅蔵 at 2011年08月15日 14:40
悲しいお父様の死を「プレゼント」ととらえ、自らの「プロセス」と思える境地こそ、禅のあるがままの姿のように思いました。
自我を極限まで削り落とし、きっと何万回もの無三昧の修業を通して見性された壮絶さは、遙かに私の想像を超えてると思います。
とても人間業とは思えません。
お父様の命の継承...
そう思えたら、愛する人の死でも自分の命へと繋がっているようで、自分の生に勇気が湧きますね。
自我を極限まで削り落とし、きっと何万回もの無三昧の修業を通して見性された壮絶さは、遙かに私の想像を超えてると思います。
とても人間業とは思えません。
お父様の命の継承...
そう思えたら、愛する人の死でも自分の命へと繋がっているようで、自分の生に勇気が湧きますね。
Posted by 由未 at 2011年08月15日 15:31
同じですね。
ほんの2日前にはぴんぴんとして生きていた父が病院のベッドで逝くのを見ていて、
言葉にならない言葉を発していた。
そして、ぽっかり胸の中心に空間が生まれたようだった。
そこから全く興味の無かった世界に没頭することになるとは・・・。
それまで無神論者で宗教嫌いだったんですがねーぇ。
これも、あるがままなんでしょう。
ほんの2日前にはぴんぴんとして生きていた父が病院のベッドで逝くのを見ていて、
言葉にならない言葉を発していた。
そして、ぽっかり胸の中心に空間が生まれたようだった。
そこから全く興味の無かった世界に没頭することになるとは・・・。
それまで無神論者で宗教嫌いだったんですがねーぇ。
これも、あるがままなんでしょう。
Posted by ぷ~すけ at 2011年08月15日 18:53
初めまして。
私も同じ様な経験をしました。
脳出血でその日朝行ってきますの姿が最後でした。私が19才の頃でした。本当に心にポカーんと穴が空いた様に毎日泣きました。
その時なぜだかエリザベスキューブラーさんの死ぬ瞬間の対話を読んでたんです。
今は死について身近に感じます
これから過去記事を読ませて頂きます(o^^o)
出会いに感謝します。
私も同じ様な経験をしました。
脳出血でその日朝行ってきますの姿が最後でした。私が19才の頃でした。本当に心にポカーんと穴が空いた様に毎日泣きました。
その時なぜだかエリザベスキューブラーさんの死ぬ瞬間の対話を読んでたんです。
今は死について身近に感じます
これから過去記事を読ませて頂きます(o^^o)
出会いに感謝します。
Posted by 脱力ママ at 2011年08月15日 19:43
私も父を亡くしてもう10年以上になります
父が亡くなったときわたしは自分のことで夢中で自分の事しか考えられない
状況にあり、亡くなったと聞かされてああこれで父も幸せになれるかもと感じ
ました、それは父が生前、とても幸せとは呼べない状況にあったからです
私も自分自身、死んでしまった方が幸せになれるのではないかと思っていた
時期です。
お盆の手伝いをするたびに思われるのが、今もし父が生きていたらもう少し
優しい言葉をかけてあげられるのにと考えてしまいます
(●^o^●)
父が亡くなったときわたしは自分のことで夢中で自分の事しか考えられない
状況にあり、亡くなったと聞かされてああこれで父も幸せになれるかもと感じ
ました、それは父が生前、とても幸せとは呼べない状況にあったからです
私も自分自身、死んでしまった方が幸せになれるのではないかと思っていた
時期です。
お盆の手伝いをするたびに思われるのが、今もし父が生きていたらもう少し
優しい言葉をかけてあげられるのにと考えてしまいます
(●^o^●)
Posted by 直弘 at 2011年08月16日 07:15
空っぽになってしまった心を、無三昧に成りきることで、見性することができたんですね。
満たそう、満たそうとするから、余計苦しいのかもしれません。
満たそう、満たそうとするから、余計苦しいのかもしれません。
Posted by eagle at 2011年08月16日 12:54
ウの中心はム、ムの廻りはウである
中心は無限、周辺は有限である
と聴いたことがありますが
いまいち意味が分かりませんでした
いまここの自分とこの世のことかなー?
中心は無限、周辺は有限である
と聴いたことがありますが
いまいち意味が分かりませんでした
いまここの自分とこの世のことかなー?
Posted by てらちゃん at 2011年08月22日 21:31
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