僧堂生活③

   “こっさん”です

2011年06月21日 21:19

坐禅の要点は、①身を調え、②息を調え、③心を調えることですが、この頃私は、一番目の「身を調える」ということは、生き方全体にかかわることだと思うようになりました。

そこで今回は、僧堂の具体的な生活ではなく、先ずは「身を調える」ことの意味をお話してみましょう。
阿部さんも言われているように、人生で一番大事な根本的なことは「悟る」ことです。「悟る」と、大上段にかまえたように言うと、多くの人は、自分とは関係のない、偉い聖者だけが達成できる、何か特別なことのように思われるかも知れませんが、要は「迷い」から解放され、あたりまえの地平に降り立つことです。

もし、あたりまえの地平に立つのでなければ、幻想の中をさ迷う夢遊病者みたいなもので、リアルな本当に充実した健全な人生を歩むことは出来ません。
ですから、「悟る」ということは、本来の生に開眼することであって、ことさら、悟ると言ったり、その自覚がなくとも、多くの人は立派に悟って生きていると、私は思っています。
もしそうでなかったら、世の中は夢遊病者の集まりみたいになってしまいますから。

では、「本来の生に開眼」するとは、どういうことでしょう?

簡単に言うと、自分一人で生きているのではなく、ともに「大いなる命」に生かされて生きている、さらには、「大いなる命」そのものだと自覚することです。
その「大いなる命」は、神とか、仏とか、ダーマとか、サムシング・グレートとか、無とか、無量寿・無量光とか、昔からいろいろの言葉で表現されてきました。
しかし、「大いなる命」は、私たちの究極のよりどころですから、言葉の数だけ違った究極のよりどころがあるはずはなく、一つの普遍的な真理、本来言葉や思いを超えたものを、その人の生きている社会の価値体系や体験によって受けとめ表現するので、違うように錯覚してしまうのでしょう。

私の尊敬する精神科医で、神谷美恵子(1914~1979)という素晴らしい女性がいます。
名著「生きがいについて」(みすず書房)ほか、多くの著作があり、美智子皇后の相談役でもあったそうです。
彼女が人生に開眼したのは、21歳の時、当時不治の病とされた結核で軽井沢の山荘で療養していた時です。その時の体験を彼女は次のように語っています。


何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真っ暗な袋小路としかみえず、発狂か自殺か、この二つしか私の行きつく道はないと思いつづけていたときでした。突然、ひとりうなだれている私の視野を、ななめ右上からさっと稲妻のようなまぶしい光が横切りました。と同時に私の心は、根底から烈しいよろこびにつきあげられ、自分でもふしぎな凱歌のことばを口走っているのでした。「いったい何が、だれが、私にこんなことを言わせるのだろう」という疑問が、すぐそのあとから頭に浮かびました。それほどこの出来事は自分にも唐突で、わけのわからないことでした。ただたしかなのは、その時はじめて私は長かった悩みの泥沼の中から、しゃんと頭をあげる力と希望を得たのでした。それが次第に新しい生へと立ち直って行く出発点となったのでした。

仏教でも、悟りの地平を無量光というように「光」ととらえていますね。
この神谷美恵子さんの私がとても感銘を受けた言葉を紹介しましょう。

    「私の一生はただ恵みをうけるための器であった」


「身を調える」とは、恵みをうけるための器、清らかな空の器となることです。


思わず長い文章になってしまいました。この続きは、次回のブログで。

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