肚を決める(続)
20代から45年余りの人生を振り返って、
D社に入社し辞め、雲水(禅の修行僧)になり、兵庫県の寺に入り、結婚し、浜松の今の寺に移り…と、
節目節目で一応決断してきたわけですが、
ほとんど迷うことなく即決で、後悔は全くしていません。
20代の見性体験と、その後ずっと続けてきた禅の修行のお陰だろうと思います。
老師に参禅していつも言われるのが、
「天地いっぱいの無に成り切ってこい!」です。
どのような状況にあっても、環境がどう変わろうとも、
「天地いっぱいの無」に変わりはないのです。
大袈裟に聞こえるかも知れませんが、
「天地宇宙を住み家とする」心境を養ってきたわけです。
いつもマイスイートホームに居るのですから迷いようがないわけです。
そして「禅定」の「いまここ」に成り切って生きるということは、
ゴールは常に「いまここ」の脚下にあるのだし、あれこれ余計なことは思わない思考停止の訓練もしているので、「後悔する」こともないのです。
「タオ」というか、「随神(かんながら)」というか、
大きな流れに任せきっている安心感と喜びが日常の感情のベースにあるのです。
禅の修行をすると、
生きるのが随分と楽に愉快になりますよ(^▽^)
フェイスブックで「おっさま」からこんなコメントをいただきました。
Kunihiko Hirano 覚悟したつもりでも、また迷いが出てきて、そしてそこからまた覚悟できと自分なりの覚悟のつもりがまだ揺らぐときがあります。それは本当の覚悟ではないと言う方もいるかもしれませんが、どれがいい、悪いではなく、自分のいまの心の大きさで出来る覚悟だからそれでいいと思っています。今までは、出来ない自分を責めたりしてきたけど、この素敵なたった一人の自分を自分で認めてあげることの大切さを知りました。その、自然なあるがままの自分が放つ光で少しでも周りの人が照らされて行く道の参考になればいいなーと思っています。
迷っても
わが家なりけり
天地いっぱいの無(空)
と言ったところでしょうか。
そんな迷うことの意義を説いた仏教エッセイを「釈の会」の同志・阿純章師が出版されました。
『「迷子」のすすめ』(春秋社)
面白いですよ。
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