超自覚

   “こっさん”です

2013年06月10日 23:51


禅は掃除でも料理でも、
何でも「成り切ってやれ!」と言います。

では、成り切ってやっている行為についての自覚はどう働くのかという主旨の質問がありました。

いや!勉強になります(^▽^)


ある剣道5段の人に、見事に一本が決まった時の心の状態について聞いたことがあります。

その人曰く、
真剣に相手と対峙しつつ間合いをとっていて、
「気がついたら一本決まっていました」と。

同じような事を他の分野のプロも言っているようです。
つまり、「成り切る」三昧・禅定に二つの次元があるということです。

先ず、自分が何をしょうとしているか明白に自覚して、心をこめてその事を行う。
そして、心をこめてやっているうちに、そのやっている事すら忘れて、やっているという自覚も無い状態に至るのです。

坐禅の場合なら、
坐禅に成り切って「天地いっぱいの無・空」を体感する。
さらに、その空・無に突入して空・無の意識すらない「真空」に至るということです。


日常の私たちは、
自分の今やっている事を、明らかに意識することのない無自覚で雑念だらけで物事をしていることが多いようです。
例えば食事をしても、『食事五観文』を唱えるようにして目の前の料理にはっきりと気づきつつ、感謝し味わい食べることに集中することが少ないのです。

ですから、「いまここ」を十全に生きるためには、
先ず今やろうとしている事を自覚して心をこめて行うことが大切です。
そして、このようにして「いまここ」の事を成りきって三昧で行っているうちに、その今やっている事の自覚すらない、
「ただ○○している」という超自覚ともいうべき境地に至るのです。


道元禅師は、「打坐して身心脱落することを得よ」と言い。
黄檗禅師(臨済禅師の師匠)は、「身心共に捨つべし」と言います。

身も心も脱落し捨てるのですから、あれこれの意識もないのです。

自覚⇔超自覚の円環的な働きが、
「いまここを生きる」最高の境地だろうと思います。

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