唯識について③ー無字の公案

   “こっさん”です

2012年01月04日 21:34

さて、今回は「無字」の公案です。
臨済禅の専門道場の修行は、坐禅・読経・掃除・料理・托鉢・作務(畑仕事等の肉体作業)と老師(ゼン・マスター)と弟子との一対一の参禅問答によって構成されています。

すべてが、身と心を一つにして成りきって行う「禅定」に導く日常生活に根ざした実践体系として完成されています。


参禅問答は老師が弟子に「公案」を与えることから始まります。

公案とは、禅の祖師たちの具体的な行為・言動を取りあげて、禅の精神、悟りの境地を究明するための問題としてとりあげるものです。
わが国でいちばんポピュラーな公案集として参禅修行者に最初に課せられるのが『無門関』という中国宋代の禅僧無門慧開和尚(1183~1260)が編集したものです。
その中でも第一則「趙州無字(じょうしゅうむじ)」の公案は、修行者を見性に導く初関として有名です。
内容は、本則と無門禅師の解説で構成されています。特に無字の公案の解説は、禅を実践するに当たって最初の関門をどう透過するかについて、懇切丁寧な説明がなされています。

「無字」の公案を透過することは、いわゆる無我に成りきり「空」を体感することですから、無字の初関は究極の公案でもあるわけです。


それでは、できるだけ分かりやすく意約してみましょう。

無門関 第一則「趙州無字」

【 本 則 】

趙州にある僧が尋ねました、
「犬にも仏性があるでしょうか?」と。
趙州は「無」と答えました。


【無門禅師の解説】

参禅は必ず禅の祖師によって設けられた関門を透過せねばならない。絶妙の悟りに至るには心の意識を完全に滅してしまわねばならない。関門を透ったこともなく心の意識を滅したこともなければ、その人たちはいわば薮や草むらによりかかかり住みつく幽霊のようなものである。

さあ言ってみよ。この祖師の関門とはどんなものか。ただこの「無」の一字、これが禅宗の第一の関門であり、これを「禅宗無門関」と称する。この関門を透った人は、親しく趙州と会うことができるのみか、歴代の祖師たちと、手に手をとって歩き、互いの眉毛が引っ付く程に親しくなって祖師たちの見たその眼ですべてを見、同じ耳で聞くことができる。

本当にすばらしいことではないか。なんとしてもこの関門を透過しようではないか。それには、三百六十の骨節、八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、「無」の字に集中し、日夜工夫しなさい。

しかし「無」を単に「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの理屈・分別の「無」と解してもいけない。
この無は、まるで熱い鉄丸を呑みこんでしまったように、吐きたくても吐くこともできず、今までとらわれていた知識や意識をすっかり洗い落し、時機が熱すると、自然に意識と対象との隔たりがとれ完全に合一の状態に入る。
それは聾唖者が夢にみたことを人に語れぬように、自分自身では知覚していても言葉では説明のしようの無い状態に似ている。

突如そのような別体験が訪れると、驚天動地の働きで、関羽将軍からその大刀を奪いとって自分の手にいれたようなもので、仏に出会えば仏を殺して仏の呪縛を破り、達磨に出会えば達磨を殺して祖師の呪縛を破り、現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、自分という意識を離れた遊戯三昧(ゆげざんまい)の境地にいたる。

では、どのように工夫したらよいのか。

平生の精神力をつくしてただ「無」の一字に集中せよ。もし間断なく休止することがなければ、ロウソクに火がつくように、心中に悟りの光が一時に灯るといった境地になる。



私にとって、見性から今日にいたるまで、この「無字」は一切の意識の呪縛を解き放つ大刀であり究極のマントラであり、私の本質そのものです。


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